X-10
(エクス・テン)

<25>




眠りの中、心のどこかで意識を戻すのがもったいないと思っていたのかもしれない。
ノックの音で目を開けた時、俺は明らかにがっかりしていた。
「おはようございます、八尋さん。朝食の用意ができていますから」
ドアの向こうから聞こえたのは牧師の声。
「あ……すみません。すぐに行きます」
返事をしながら起きた時、ベッドに阿坂の姿はなかった。
「なんか、随分と甘い夢を見たような気がしたな」
振られたばかりのはずなのに。
意識がすっかり戻った今でも昨夜の手の感触が俺に甘い錯覚を抱かせていた。



「おはようございます」
食卓にはパンとミルクとスクランブルエッグとベーコン。
一人分だけの朝食を見ながら阿坂の所在を尋ねたが、当然のように「もう出勤しましたよ」と返事があった。
「会議の日はいつもより少し早めに出ますから」
「そうですか」
朝までちゃんと眠れたのだろうか。
いつまで俺の手を握っていたんだろう。
そんなことを考えた時、不意に思い出したのは昨夜阿坂が言っていたこと。
「助手が……エドワードが迎えに来たんですか?」
尋ねている途中で自分の声がトーンダウンするのが判った。
牧師もそれに気付いていたんだろう。
「ええ。こちらに戻った時は教授の言いつけで必ず迎えに来ます」
それが彼の仕事ですから……と、どこかで聞いたような台詞はフォローのつもりなんだろう。
実際、俺の気分は少しだけ軽くなった。
「八尋さんはもう彼にお会いしたのですね?」
真面目で人当たりの良い方でしょう、と尋ねられ、一応頷いてみたけれど。
「でも、俺はあんまり好かれていないようです」
ポロッと本音を漏らしたら、「外部の方なので距離を置いているだけでしょう」という当たり障りのない言葉が微笑と一緒に唇に乗せられた。


阿坂のいない食卓を少し寂しく思いつつ、天気の話をしながら食事を済ませて。
「午前中一杯は会議と言っていましたから、研究所へはお昼直前に着くくらいが良いと思いますよ。会議のある日は図書室もカフェも慌しいですから」
ホテルまでお送りしますから、こちらでゆっくりしていってくださいと言われて曖昧に頷いた。


ゆっくり、とは言われたものの、そのうちに天気の話もネタが尽きて。
「あの、お聞きしてもいいですか?」
本人がいない場所であれこれ尋ねるのも気が引けたが、
「阿坂の不眠ってそんなに酷いんですか?」
転職に支障を来たすほどなのかと尋ねたら、「八尋さんはどう思われますか?」と逆に聞き返されてしまった。
「別にそれほどとも思わないんですが……まあ、感情の起伏が普通より乏しいから、それが寝不足のせいって言われたらそうなのかもしれないと思いますけど。でも、後は別に」
俺が答える間も牧師は穏やかに笑みを湛えて頷いていたけど。
「せめて父親だけでも側にいれば……状況はもっと違ったと思うのですが」
急にふっと笑みを消して、溜め息混じりにそう呟いた。
それから、おもむろに立ち上がると、引き出しからフォトフレームを取り出してきた。
それはいかにも研究者の集まりという風情の写真で。
その真ん中に阿坂に良く似た白衣の男が立っていた。
「大学の研究所で働いていた頃のものです。隣の、額に傷のある方が彼の恩師である小田切教授です。阿坂氏に万一のことがあったら、彼が理志君を引き取ることになっていたはずなのですが―――」
阿坂の父親と父親の恩師だったという教授のまわりを取り囲んだ数名の同僚たちの中にはタヌキオヤジの姿もあった。
「お二人とも小田切教授の教え子で、当時はとても親しかったと聞いていますから……それに、父親の代わりとして面倒を見ている以上この先も彼を手放す気は――――」
そんな言葉の裏に、牧師もこの状況が良いとは思っていないことが感じ取れた。
「……そうですね」
そう答えた後もまだどこか納得できずにいたけど。
「八尋さん、まだお時間は大丈夫ですか?」
牧師はもう一度微笑んで、「見せたいものがあるから」と廊下に続くドアを開けた。



「どうぞ、こちらです」
一階の真ん中。明るい色に塗られたドアを開けるとそこは子供部屋だった。
「阿坂の……?」
「ええ、ここからだと中庭が良く見えるので」
狭い部屋に小さなベッドと勉強机。
正面にある大きな窓からは阿坂が昼寝をしていた場所が良く見えた。
「幼い頃はよく窓から抜け出してあの前で眠っていました」
毛布代わりに犬を連れて、昼でも夜中でも関係なく墓の前で眠っていたと牧師が懐かしそうに目を細めた。
「……あの、俺に見せたいものって」
そんな子供の頃を想像することが少しつらくて、早々に話を逸らせてしまったけど。
「ああ、そうでしたね」
微笑んだまま手を伸ばした本棚に並んでいたのはたくさんのノートやファイル。
「霧生氏が置いていったものです」
「これ全部?」
にっこりと笑って頷いて、俺に手渡したのは手紙の束。
「誕生日ごとに渡すようにと頼まれていたのですが」
一番下は25歳の阿坂宛。
それが多分最後なんだろう。
でも、二年後のはずのそれも、もう封が開いていた。
「全部読んだってことですよね」
「そのようですね」
それでも20歳分までは誕生日に一通ずつ渡していたんですよ、と笑みを含んだ声を聞きながら、机に置かれていたノートをペラペラとめくった。

それは阿坂が一人になってからの一日の予定表。
それと、ずっと先の未来予想図。
部屋にはそんなものばかりがたくさん詰まっていて。
そいつが阿坂のために費やした時間や気持ちを感じさせた。

「本当にずいぶんたくさんあるんですね」
なんでこんなものを俺に見せるんだろう、とか。
勝手に見てもいいんだろうか、とか。
思うことはいろいろあったけれど。
それよりも。
「手紙を渡すように頼まれたってことは、直接霧生って人と話したことがあるんですよね?」
「ええ、長いお付き合いではありませんでしたが」
それでも牧師は二人が一緒に暮らしていた頃のことをよく知っていた。
「写真をごらんになりますか?」
あまり残っていないのですが……という言葉と共に差し出されたそれは、薄暗い部屋で撮られたのか、全体的に彩度が低い上に隅が破けてボロボロになっていた。
「これは亡くなる少し前のものです。初めの頃はこれよりもずっと健康そうで明るい印象でしたが」
白衣姿で20代後半くらい。
写真全体が暗いので表情もそれほど鮮明ではなかったが、やわらかい微笑みに人柄が見えるようだった。
視線の先は自分の腕で眠っている子供。
ランドセルを背負わせるにはちょっと無理がありそうな背丈。
斜め後ろからのアングルだから顔だってはっきり写ってるわけじゃなかったけど。
「……これ、阿坂ですよね」
耳から頬にかけての輪郭に残る面影。
「あまり変わっていないでしょう?」
きっといつもこうやって寝かせてもらっていたんだろう。
男の腕にすっかり体を預けて眠るその様子が昨日墓の前にいた姿と重なった。
「写真はこれしかないんですか?」
尋ねたら、ファイルの間からもう一枚出してくれた。
「ここにあるのはその二枚だけです。教授の手元になら、まだ何枚かあるかもしれませんが」
証明写真か何かなんだろう。
上半身真正面。スーツにネクタイ。
やはり少しやつれてはいたが、なんてことはない普通の写真。
なのに。
およそ鮮明とは言えないその表情はなぜか無性にひっかかった。

――――前に一度、どこかで見た覚えが……

阿坂の私室に写真は一枚もなかった。
だとすると、タヌキオヤジの部屋に飾られていた写真の中だろうか。
記憶を手繰り寄せている途中で、不意に牧師が口を開いた。
「エドワードに似ているでしょう」
「え?……あ……ああ、そうですね」
そうだ、助手に似てるんだと思う気持ちの裏側で、同時に「そうじゃない」という声が通り過ぎていく。
「昨年、教授がわざわざ霧生さんと似ている方を探して連れてきたのだと聞いています。年も霧生さんが亡くなったご年齢と同じだとか」
そんな言葉に思考が阻まれ、またどこかで痛みに似た感情が湧く。
「それって犬が死んだ後ってことですよね」
「ええ、そうです。急に眠れなくなって病院に通ったんですが、あまり治療の効果がなくて――――」

可愛がっていた犬を亡くした時、阿坂に差しのべられたのは、大好きだった相手に良く似た男の手。
どんな気持ちでそれを握り返したのだろう。
わざと似た男を差し向けたのだと言うことに気付きながら。
それでもなお縋らずにいられなかったとしたら。

―――俺、酷いこと言ったんだな……

助手に婚約者がいると知りながら付き合っていることを責めて、「最低だ」と吐き捨てた俺に対して、阿坂の返事は「わかっている」の一言だけだった。
与える方も受ける側も、愛情なんてないまま。
それを承知の上で尚、そんなもので埋めるしかなかったのだとしたら。

「俺、この間、阿坂に―――」
そう呟いた後で、まるで懺悔みたいだな、とぼんやり思った。
ちゃんと聞こえていたはずなのに、牧師はわずかに微笑んだだけ。
しばらく何も言わなかった。
それがなんとなくいたたまれなくて、また無意識のうちにデスクに置かれていたノートをめくっていた。

時間を経て紙が少し変質しているのだろう。
めくるたびにパラパラと堅い音がするその中ほど、一番開きやすかったページに、日本語で『友達はどんな子がいい?』と書かれていた。
手紙と同じ、大人の筆跡。
そして、その下には肩にバッグをかけた男の子の絵と子供らしい拙い文字が並んでいた。
『くろいかみ、くろい目、同じとし、同じくらいのおおきさ、同じけつえきがた。メガネはけんびきょうを見るのにじゃまだからかけてない子がいい』
日本だったら、この全ての条件に合う子供なんて簡単に探せるだろうけど。
そのイラストの男の子の髪の長さや着ている服の色が今の俺とまったく同じことに面食らった。
こんな偶然を少しくすぐったく思うのは、どこかで何かを期待してしまうからなんだろうけど。
「この絵があまりにも八尋さんと似ていたので、最初にお会いした時、少し驚きましたよ」
「……俺も驚きました」
阿坂と最初に会った日も俺は今日と同じ服だっただろうか。
そうだったような気もするし、違ったような気もして、ちゃんと思い出すことはできなかったけど。
それが理由で俺に声をかけたのだとしたら―――

少し複雑な気持ちに浸っていたら、背後で牧師が笑っているのに気付き、慌ててノートを閉じた。
「では、そろそろ出ましょうか」
車の鍵を取ってきます、と言われて。
「あ、いいです。俺はバスで……」
丁重に断ったけれど、用事で街に行くついでだからと言われ、
「じゃあ、お言葉に甘えて」
そのままありがたくホテルまで乗せてもらった。

「どうもありがとうございました」
もう会うこともないかもしれないと思いながら、「それじゃ」と言ってペコっと頭を下げた時、
「八尋さん」
不意に呼び止められて。
「……はい?」
朝の陽射しが柔らかく降るホテルの真ん前。
「生涯変わらず良い友人でいてあげてください」

笑顔で告げられた言葉は、ほんの少しだけ俺の心臓に痛みを残した。



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