X-10
(エクス・テン)

<26>




部屋で着替えて一応取材道具一式と財布の中身を確認した時、社に電話を入れる必要性を感じた。つまり所持金が心もとない感じだったのだ。
だが。
「え、編集長いないんですか? しかも携帯が繋がらない?」
『だったらナニよ。あのヒト、いつも半分行方不明みたいなモンじゃない』
普段は暇そうにしているくせに肝心な時に限っていない。
あのオヤジはそういう奴だ。
「金がなくなりそうなんですけど、連絡取れませんか?」
どこにいるのか知らないが今時携帯が繋がらないっていうのはどうなんだろう。
女のところにでも行ってる都合でわざと切っているんじゃないかとまで思ったが。
『一応取材らしいわよぉ。ドクターのパパン関連だって。でも、それって病原菌オタクの加地っちが持ってきたウソくさぁい情報だから、信じない方がいいかもね』
今頃二人でアヤシイことしてたりしてね、なんて言いながらアハハと笑う声。
「……優花さん、今日も暢気ですね」
『だって、アタシには関係ないもん』
当然のようにそう言い放たれ。
「そうですけどね」
いつものことながらまったく役には立たない。
いや、彼女以外の人間が出ても同じ事だったとは思うが。
「分かりました。また電話します。もし連絡あったらカードから金を下していいか聞いておいてください」
あと2〜3日はなんとかなるだろう。
『じゃあね、ユキウエ。ちゃんと仕事しなさいよ』
「……わかってますよ」
人のことを言えんのかよと思いながら受話器を置いた。
まったくもってうちの会社がどうやって存続しているのか本気で知りたいと思う。


「仕方ねーな。最悪の場合には阿坂に頼んでみるか」
さすがに金は借りられないが、言えば自宅か私室に泊めてもらえるかもしれない。
そんな目論見の元、とりあえずホテルはチェックアウト。大きな荷物はフロントで預かってもらうことにした。荷物の保管だけならコインロッカー程度の金額で懐も痛まない。
後のことはどうにでもなるさと思いながら手荷物預かりの書類を記入していたら、不意に背後で嫌な気配がした。
「おはよう、八尋君。通りかかったらキミの姿が見えたから挨拶を、と思ってね」
振り返るとそこにはすっかり馴れ馴れしくなったジャーナリストの姿が。
ついでにポンポンと背中を叩かれた。
まったく朝からロクなことがない。
「荷物だけ預けるの? 部屋は取ってないってこと?」
そんなことおまえに関係あるのかよ、と言いたいのはとりあえず堪えて、
「金がなくなりそうなのでホテルは引き払って阿坂のところにでも泊めてもらおうかと」
適当な返事をしつつ、書き終えた書類と一緒に荷物を係員に渡す。
「複写の2枚目が引換券になりますから」というような説明を聞きながら頷く俺の隣で、ジャーナリストは意味ありげな笑みを浮かべた。
「でも、今日研究所に泊まるのは無理かもしれないね」
「何かあるんですか?」
問い返すと、わざとらしく辺りを確認した後で声を潜めた。
「研究所に保管してある資料が一部盗まれたらしくてね。午前中も会議と称した魔女狩りだって噂だよ」
まさか阿坂氏が犯人なんてことは……などと言われ、さすがに俺も少し切れかけたが。
「そんなわけないじゃないですか」
辛うじて平静を装ってそう答えた。
「まあ、彼の場合は持ち出したことが分かれば病院送りだろうから、そうそう迂闊なことはしないはずだけどね」
どこでどんな情報を仕入れてきたのか知らないが、やけにしたり顔なのがムカついた。
「なんでそんなことまでご存知なんですか?」
「研究員の一人と親しくなってね。……あ、今話したことは全部内緒だよ」
だったら話さなければいいのに、と思いながらも「もちろんです」と返し、コイツを今すぐ追い払うにはどうしたらいいだろうと考えたが、その心配は必要なかった。
「じゃあ、何かいい情報があったらよろしくね、八尋君」
ハイテンションな空気を纏って立ち去るジャーナリストを見送ってから、塩を撒きたい気分になった。
いろいろ助け合おう、という意思表示なのかもしれないが、それにもかかわらず俺の反感を買うようなことしか言わないのがコイツの七不思議だ。
多分、相当空気が読めない男なんだろう。
そうは思ったものの。
「……本当に阿坂じゃないよな?」
思い返せば先日の阿坂の頼みごとはデータの持ち出しではなかったか。
「後でそれとなく聞いてみるか」
どうせ午後は一緒に過ごすのだからという半ば優越感にも似た気持ちで、昼に近づいた時計の針を眺めながらホテルを出てバスに乗った。




「おはようございます」
カフェは思っていたよりも忙しくなさそうな雰囲気だったが、その一角に微妙なムードが流れていた。
「どうかしたの?」
おばちゃんを捕まえてこっそり聞いてみたら、セルフサービスのコーヒーを取りに来た白衣姿の男が警戒した様子で振り返った。
「ああ、この子は大丈夫よ、ロイ。日本から来たドクター・アサカの友達なの」
俺が部外者であることを確認すると男は明らかにホッとしたような顔で右手を差し出し、簡単な自己紹介をした。
その内容は、現在阿坂たちがやっている仕事の依頼主である企業から派遣されているってことと、週に三日ここに出勤しているということ。
自分の身分を一通り説明した後、
「で、今日の会議にも出席してたんだけど、実はまた揉め事があってね」
その場にいても仕方ない雰囲気だったので避難してきたのだと告げた。
「開発が遅れていてなかなか成果が上がらないって時だから、みんなちょっと余裕がなくて、ただでさえピリピリしているっていうのにアサカがね……まあ、間違ったことは一つも言ってないんだけど、なんていうか―――」
聞かずともなんとなく想像はできた。
阿坂のような常に冷静な口調というのは、イライラしている時に聞くと見下されているような感じを受けるのだろう。
「開発チームのスタッフは全員アサカより年上なんだけど、『それを本気でおっしゃっているなら研究者としてのプライドを疑います』みたいなことを真正面から言うもんだから、相手はもうブチ切れ寸前って感じでね」
あの分だと誰かが掴みかかるのも時間の問題だろうね、と言う口元に苦い笑いが浮かんだ。
「もっともこっちに言わせたら、最初からアサカ一人に任せてくれた方がありがたかったんだけど。まあ、そのへんはあの教授がね―――」
そう言って肩を竦めた後は言葉を濁した。
「ヤヒロはなんで教授がドクターを表に出したがらないのか理由を知ってる? 病気のせいだけなのかしら?」
おばちゃんにも聞かれたけど。
「……いや、俺は何も」
タヌキオヤジが阿坂をここに閉じ込めておきたがっているのはありありと分かる。
けど、理由が何なのかはさっぱり分からなかった。
「まあ、なんていうか、あちらはあちらでいろいろ事情がありそうだよね」
男はまた微妙な笑顔を見せた後、壁にかかっている時計に目を遣った。
「さて、そろそろ彼が出てくる頃かな。……まあ、正確に言うと『追い出されてくる』んだろうけど」
怪我をしてなきゃいいけどね、と入り口を見遣る表情にはこんな内部事情に呆れ果てている様子が見て取れた。
「軽い怪我なら教授とか助手が手当てしてくれるんじゃないですか?」
そうは言ったものの、先日も阿坂はボロボロの状態で部屋に座り込んでいて、誰も手当てなんてしてくれないんだろうってことは推し量るまでもなかった。
「それもいつものことだけどね。エドワードはともかく教授はありえないよ。血なんて出てた日には近寄りもしないんだから。母親がちょっと変わった病気で亡くなってるせいらしいけど、だからってその扱いはないよなってさ」
普段はあまり阿坂と親しくないスタッフもさすがにそればかりは納得していないことも遠回しに教えてくれた。
「ああ、でも、エドワードも今日はアサカのフォローをしてなかったっけ……喧嘩でもしたのかな」
アサカの唯一の味方なのに……と言われ、また自己嫌悪に陥った。
人事だと思って「別れた方がいい」なんて簡単に言ったけど。
「助手がいないと阿坂はやりにくいってことですか?」
尋ねた瞬間、「そりゃあ、そうだよ」と当然のように返事があった。
「もっとも、あの二人は長くは続かないと思ってるけどね。アサカはエドワードに特別な感情は持ってなさそうだし、最初からなんか不自然だったし」
まだまだ言い足りないことがあるのか、一人で話し続ける男を眺めながら、小さな溜め息をついた。

何にしてもそれほど酷い状態じゃないといいけど―――

本気で心配になった時、ふらりと阿坂が現れた。
もうスーツは着てなくて、でも、いかにもさっき殴られましたという顔で。
「早かったな。ここまで牧師に送ってもらったのか?」
阿坂は平然とそう尋ねたけど。
そう言った時、わずかに口元を歪めたのは痛みのせいだったのだろう。
「え、ああ、うん。ホテルまで……それより大丈夫なのか? ここって手の早い奴が多いんだな」
頬の辺りが部分的に赤くなっていたものの、辛うじて血は出てなかった。
冷やしておけば腫れずに済むかもしれない。
「誰にやられたんだ? あのタヌキオヤジか?」
すぐに手が出るようなタイプにも見えないが、親代わりなら揉め事を収めるために阿坂を引っ叩くことくらいはするかもしれないと思ったけど。
「あの男にそんな勇気はないだろうな」
阿坂から返ってきたのはそんな冷めた言葉だった。
その瞬間、形容しがたい空気が流れて。
派遣スタッフの男とおばちゃんが顔を見合わせた。
いかにも妙な勘繰りをしたくなるような発言だから仕方ないけど。
また余計な噂が流れたりするのもまずいだろうと思い、慌てて別の質問を投げかけた。
「……で、お咎めはなしだったのか?」
話を聞く限り阿坂が悪いわけではなさそうだったが、そこはあのタヌキが率いる陰湿集団だから、実際の責任の所在とはまったく関係なく、向こうの思い通りの処分が待っているんだろう。
「しばらく自宅謹慎らしい」
阿坂の返事は相変わらず他人事のような口調だったが、微妙に頭に来ていることだけは感じられた。
「ふうん、そっか。まあ、ここでどうこう言っても仕方ないし」
謹慎中にピクニックはさすがにヤバイだろうが、普通の昼食なら多少楽しげに外で食っても咎められることはないはずだ。
そう思って。
「とりあえず出るか。どこかでメシ食おう」
いろいろ聞きたいこともあったし、早々に阿坂を外に連れ出すことにした。

というか。
早く二人になりたかっただけかもしれないけど。



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