X-10
(エクス・テン)

<27>




阿坂の頬はさっきより赤くなっているような気がしたけど。
天気だけは絶好調で、ついでに二人でいることにもすっかり慣れて、ぎこちなさもなくなっていたから、バスには乗らずに並んで大通りを歩いた。
「何食いたい?」
青々とした並木道に出来たばかりのビル。
もともと新しい街だが、中でもこのあたりは最も近代的、いや、近未来的とさえ言えそうな様相だった。
「うわ、すっげーな。水族館かと思った」
思わず足を止めたのは正面がガラス張りで二階までブクブクと気泡が立ち上っているような不思議なビル。まるで建物の中全部に水が溜まっているようだった。
だからと言って冷たい印象を受けないのは、その裏手にある公園や花壇のせいなんだろう。二階は広々としたテラスで、その中央には華やかに演出された噴水まであった。
「金かかってんなぁ」
そんな世俗の事情にはまったく関心がなさそうな顔だったけど、阿坂は文句も言わず俺に連れ回されていた。
二階にまで張り巡らされた水路には時々煙草の吸殻なんかも浮いていたが、巡回する間に水を浄化できるような仕組みになっているのだろう。あっという間にどこかに吸い込まれると、あとは何事もなかったかのように澄んだ水だけが流れていた。
「あ、隙間発見。ここを狙って物を落っことしたら一階まで沈むよな? ってか、手帳くらいの大きさなら入りそうなんだけど」
やってみたい衝動に駆られたが、それは阿坂に止められた。
「なんだよ。面白そうなのに」
くだらない話に笑いながら二階にあるカフェに入って昼食を済ませ、そのあとは少しでも爽やかな気分になれるようにと、ビルのすぐ裏にある公園でのんびり過ごすことにした。


目の前には眩しいほど青々とした芝が広がり、花壇の向こうは遊歩道。さらにその奥はまだ新しい教会で、公園からも結婚式をしているカップルが見えた。
「屋外の結婚式って気持ち良さそうだな」
青い空と白いドレスを見比べながら、牧師の声さえ聞こえてきそうな場所を指差した。
「あの辺に座ろ」
勝手に決めて。
それから、阿坂の手を引っ張って木漏れ日が揺れる芝の上に移動した。
「あー、結婚式って何かいいよな」
牧師の言葉はもちろん英語で、はっきり聞こえる距離にいたとしても俺にはちゃんとした意味はわからなかっただろうけど。
「今、何て言ったんだろ?」
阿坂はもうまるで違う方向を眺めていたけど。
でも、遠くを見たまま俺の質問に答えてくれた。

光の中で緩く足を組んで。
流れるようにその一節を口ずさむ。
英語のまま繰り返したから、一箇所たりとも正確に理解できるフレーズはなかったけど。
少しハスキーな阿坂の声に、不思議と気持ちが安らいだ。

「あー、そのへんを日本語にして」
そんなリクエストをしてみたことに深い意味なんてなかったけど。
「……『死が二人を別つまで』」
その後、阿坂は微妙な間の後で俺の顔を見て、唐突に聞き返した。
「八尋なら、最期まで一緒にいたいと思うか?」
本当にいきなりだったから、俺は少し面食らっていたかもしれない。
「え……そりゃあな。好きな相手に見送ってもらえるのって良くないか?」
そう答えながらも映画とかドラマのワンシーンのように他人事な映像しかイメージできなかったけど。
「相手に泣かれてたとしても?」
何よりも阿坂が自分からこんな話をすることが少し驚きで。
「うん。泣いてもらえるほど愛されてたんだなって素直に喜ぶと思うけど」
もっと真剣に答えなければいけないんだろうかと思いつつ、ひどくリアリティのない答えを返した。
「逆の立場なら?」
阿坂と違って、俺はまだ誰一人大切な人を亡くしたことはなくて、本当にすべてがピンと来てなかったけど。
「俺が見送る方ってこと? だとしても別に同じだと思うけど……」
どんなに泣いても。
誰よりも一番好きだったと、たった一言だけ伝える時間があればいいのに、と思う。
「自分の好きな相手だったら、やっぱり一番近くで泣きたいと思うよ」
そういうものじゃないのかな、と。
目を見て尋ねた瞬間、阿坂はふっと視線を外した。
その行く先は、降り注ぐ陽射しと空に舞う花束。
親しい人たちに祝福されて笑う二人が阿坂の目にどう映ったのか分からないけど。
しばらくの間、ただ黙ってそれを見つめていた。


「な、阿坂」
この先、俺がしてやれることなんて多分ほんのわずかしかないけど。
それでも。
「ここを出て、一緒に日本で暮らさないか?」
俺にしては結構な勇気をもって告げた言葉。
けど、こちらに向けられた瞳は何も語らない。
いつもと同じ無感情なままだった。
そりゃあ、唐突だと思うし、何よりも「我が身を振り返れよ」と自分で突っ込みたくなるような暮らしぶりだけど。
「阿坂が『うん』って言ってくれるなら、俺だってもっとまともに給料をもらえるような仕事に就く気持ちはあるし……そりゃあ、俺のアパートは研究所にある阿坂の部屋より狭いくらいだけど、でも―――」
味方が一人もいないような場所で我慢しながら過ごすより、楽しいこともたくさんあるはずだから。
「日本が嫌だったら、阿坂が好きな所どこでもいいから」
ダメかな、ともう一度尋ねた時、阿坂の表情にはほんの少し戸惑いが見えた。
でも、しばらくしてからようやく。
「……少し、時間をもらえないか」
俺の顔を見ているようで。
でも、視線は少しだけ外されている曖昧な表情だったけど。
「あ……うん。もちろん、好きなだけ考えてくれていいんだけど」
心のどこかで即座にNOを言われるものだとばかり思っていたのに。
「あのさ……それって、考える余地はあるってことだよな?」
半信半疑で問う俺に阿坂はあっけなく頷いて。
祝福の輪に視線を移しながら、芝生の上に寝転んで目を閉じた。

風が吹くたびにサラサラと流れる髪の上。
揺れる木漏れ日に目を細めながら、俺もようやくふうっと息を抜いて。
そこで初めて、なんだかプロポーズみたいだよな……と思って急に照れくさくなった。


ぼんやりと足を投げ出す俺と。
寝転んだままで時々俺の顔を見る阿坂の間を。
やわらかな温度の風が通り抜ける。
白いドレスを見送ってからまた隣に目を移すと、阿坂はほんの少しだけ微笑んでいるように見えた。
いつもこんな顔でいられたらいいのに、と思いながら。
それでも少し嬉しくなりかけた時、
「―――霧生も……あまり英語が得意じゃなかった」
不意に耳を抜けた言葉に軽い失望を味わった。
「もしかして、だから空港で俺に声をかけたのか?」
阿坂の返事は「そうかもしれない」だったけど。
俺はどこかで勝手に運命の出会いだと思っていたのかもしれない。
気持ちの中で何かが少し萎んでいくのを感じていた。
「八尋といると、いろいろ思い出す」
「……ふうん、そっか」
どれほど大切な人だったのか。
それが分かっているから、こんなに落ち込むんだろうか。
「阿坂にとってのそいつって親代わりなのか? それとも友達?」
「考えたことがなかったな」
親とか兄弟とか、友達とか恋人とか。
そんなものに当てはめることもなく。
阿坂の中ではただ「大切な人」だったんだろう。
目を閉じたままで。
ふっと口元に乗せられた笑みが、俺には少しつらかった。

「―――阿坂、あのさ」
呼びかけてみたけど。
俺の気持ちだけ置き去りにして、阿坂は空を仰いだまま眠ってしまっていた。
昨夜はちゃんと寝ていたはずなのに。
こういうところが病気と言われる理由なんだろうと思うけど。
「……おやすみ、阿坂」
盗まれたという資料のこと、タヌキが阿坂に冷たい理由、聞きたいことはたくさんあったけど。
「まあ、いいか。今日はピクニックの代わりだしな」
着ていたシャツを脱いで阿坂に掛けて、その下でそっと手を握った。
「……ってか、多少は脈ありだと思っていいのかよ」
それはさすがに自惚れすぎかもしれないと思ったが、やっぱり気持ちのどこかでは期待していて。
前に一度振られてるはずだってことさえ忘れてしまいそうなほど。
「ホント、よく分からないヤツだよな」
まあ、阿坂のすることだから、俺に分からなくても仕方ないって気はするんだけど。
出会ってまだほんの数日。

けど、できることなら「うん」と言って欲しいと。
そんなことを思いながら、触れていた手に指を絡めた。

殴られた頬も大分色が引いて、この分なら腫れたりしないだろうとホッとしながら。
このままずっとこうしていたいなんて、柄にもなく思ったりした。


平日の真昼間。
公園にはそれほど人もいなくて。
犬を連れて走っていく姿を眺めながら、阿坂がOKしてくれたら子犬を飼おうかなんて考えていたその時。
周囲を気にしながら通りを横切った人間の顔が俺の記憶と一致した。

―――加地さん……?

そもそも社でもあんまり顔を合わせたことがないから、まったく自信はなかった。
だからこそ追いかけようと思ったのだが。
「あ……悪い、起こしたか?」
握っていた手を離した瞬間に阿坂が目を覚まして。
その瞬間にその男のことなどすっかり忘れてしまった。


「……どうした? 頬、痛むのか?」
阿坂は何故かやけにパッチリ目を開いて。
しかも真っ直ぐに俺を見てて。
ついでに。
「八尋の……夢を見ていた」
そんな答えを返しながら、何かを確かめるようにギュッと俺の手を握るから。
「……ああ、きっと俺がひとりごと言ってたから、それで――」
自分の鼓動を耳の奥で聞きながら。
眠っていた阿坂の少し微笑んでいるような横顔が過ぎっていく。
いい夢だったのだろうかと勝手に思い巡らせながら。
また、胸の奥が熱くなるのを感じていた。
「さっき、犬が通って……俺、犬とか飼ったことないんだけど、散歩とか、なんか楽しそうだなって」
他愛もない言葉を口にしながらも熱は一向に引いていかなくて。

『夢を見た』なんて、たったそれだけの言葉に。
俺はいったい何を期待しているんだろう。

「あー、でも、アパートじゃ犬は飼えないか」
勝手に日本での生活を思いながら甘い気分に浸りかけた時、突然阿坂のポケットで電子音が鳴った。


電話は警察からだった。



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