X-10
(エクス・テン)

<29>




静かな部屋に少し重い空気が漂う。
わずかに開けられた窓から飛び込んでくる外の喧騒を聞きながら深い溜め息をつくと、
「何から聞きたい?」
そう尋ねた。

「とりあえず―――」
最初に尋ねたのは、俺のアパートに届いた資料のこと。
それについてはあっさりと、
「うん、お察しの通り阿坂教授のものだよ」
そんな答えが返ってきた。

父親が行方不明になった後、残されていた手紙を発見したのが当時研究所で働いていた加地さんで、ナインに関わるようになったのはそれがきっかけだったのだと言った。
「阿坂教授は身の危険を予感していたんだろうね。まるで遺書のような手紙だった。理志君が大人になったら渡して欲しいという資料類もリスト化されていたよ。けど、臨時職員だった僕にはその内容が良く分からなくて、それで……」
一番詳しいと思われる人物、つまり、父親失踪後ラボのチーフになったタヌキオヤジに相談したのだった。
「でも、それを見た彼は突然『自分がやるから』と言って、リストにあった資料をどこかへ隠そうとしたんだ。きっとレポートの中でも特に大事なものだと思ったんだろうね」
結局、加地さんが適当な嘘をでっち上げ、なんとか無事に日本の実家に送ることができたのだが。
「ずっと貸し金庫に入れていたんだけど、ちょっと調べたいことがあって社に持ってきたら、編集長が……」
勝手に持ち出して俺のところに送ってしまったらしい。
「まあ、八尋君のところでよかったけどね」
俺が中庭で見たのはその残りの資料で、あの映像はやはり霧生という男。
子供はもちろん当時の阿坂で、黒っぽい染みのある手は阿坂の母親だということも判った。
「観察記録として録画されていたんだよ。当時は理志君も実験体って扱いだったから」
表向きは「失踪した教授の子供を預かっている」ということになっていたらしいけど。
実際は生活空間全てに監視用のカメラが設置してあって、スタッフがそこに入る時は大げさなほどの防護服を着用しなければならなかったのだと言った。
「ナインってヤツはそんなに怖いウィルスなんですか?」
それだけ気を遣って接しなければならないのなら相当危険なものなんだろう。
そんな予想を加地さんは「そんなことはないんだけどね」と軽く否定した。
「むしろ感染力は弱い方だよ。空中感染はしないし、たとえ体内に取り込まれたとしても定着率も低い。何より、『オリジナル』と呼ばれていた原種しか別の個体に移ることはできないから、本来は感染者に直接触れてたところで何の影響もないはずなんだ」
つまり一度誰かに感染したウィルスはそこからさらに別の人間に移ることはないってことだ。
「動物での実験は繰り返されていたから、当時のスタッフもそれは分かっていたんだけどね」
それでもやはりタヌキや他のスタッフは近寄ろうとはしなかった。
たとえば阿坂が熱を出して倒れるようなことがあったとしても、医者がゆっくりと防護服を着用して簡単な診察をするだけ。
その他のスタッフにいたってはモニター越しに時々様子を確認する以上のことはしなかったという。
「どうしてそんな……だって、感染はしないって分かってたんですよね?」
俺が何かを問うたびに加地さんの表情は暗くなる。
無理をしてしゃべってくれているんだろうと思うとこっちも申し訳ない気持ちになったけど。
でも、今は仕方ない。
「うん……でも、チーフがね、理志君は絶対に感染しているし、自分の気に入らない人間にウィルスを移す方法も知っているって」
そんな噂を流していたのだ、と話しながら苦笑いした。
「なんでそんなことを思ったのか、僕も最初は分からなかった。でも―――」

母親が亡くなった直後、阿坂がタヌキに向かって言ったのだという。
『ウィルスは少しずつ弱っているから、今度寄生された人はきっと体ぜんぶが真っ黒になるまで死ねないね』、と。
それから。
『次はきっとあなただよ』、と。

5歳の子供が笑いながら口にした死の予告。
その時、タヌキは蒼白だったと言うけれど。
「そんなの、普通に考えたらただの子供の悪ふざけじゃないんですか。そうじゃなかったら、母親が死んだショックでちょっとナーバスになってたとか。……第一、タヌキは今だってピンピンしてるし」
思いつく限りの理由を並べている間、加地さんは黙って聞いていたけど。
結局、それについては何ひとつコメントしなかった。
ただ、
「彼は今でも怯えているんだろうね。そんな呪縛から開放されるために、どうしてもテンが欲しいんだよ」
だから、直接肌には触れないほど毛嫌いしながらも阿坂を手放すことができないのだ、とそう言って口元をゆがめた。
「彼はそのまま一生理志君を閉じ込めておくつもりだったと思う。でも、牧師がそれでは虐待じゃないのかって―――」
専門機関から調査員が来て、伝染病の疑いがないと証明された後でようやく阿坂は普通の生活を許されたのだ。
「もっとも、理志君が転職なんて考えようものなら、今でも裏で手を回して阻止しているって噂だけどね」
ラボではトラブルメーカーだとか、病気があるから普通に勤務はできないとか。
そんなデマを採用担当者に流したこともあったらしい。
「とても残念なことだけど、人間はつまらない噂に簡単に左右されてしまうものなんだよね」
阿坂がどこまでこの事実を知っているのかは分からない。
でも、ほとんど世間に触れずに暮らしてきた人間がそんな裏事情まで察することができるとは思えなかった。
「……親代わりなんて、よく言えたもんだよな」
最初に会った時から、何かが違うと感じていた。
でも、こんな理由だとは思わなかった。
ふつふつと湧き上がる感情が見えるかのように、加地さんは「まあ、落ち着いて」と俺を宥めたけど。
「それで、結局のところ、『X-10』てヤツは実在するんですか?」
別にそれそのものには興味なんてなかったけど。
たとえ存在したとしても、タヌキオヤジにだけは渡したくないと思った。
「さあ……それは僕にも分からないよ」
たとえ知っていたとしても俺には真実を話さなかっただろうけど。
でも、今の加地さんの困ったような表情に嘘はないと感じた。
「僕が確かに言えることは、日本に送った資料の中に阿坂教授自身が感染したというレポートが残っていたってこと、それから」
阿坂の父親がつい最近まで確かに生きていたということ。

―――それが本当だとするなら、『X−10』は実在する。

「でもね、それに関する資料は一切見つかっていないんだ」
わずかな手がかりさえ残されていない状態で。
しかも、真実を知っているはずの唯一の存在である父親は亡くなった。
もう全ては封印されてしまったということなんだろう。
そう思って少し落胆した矢先、
「気になるなら……理志君に聞いてみるといいんじゃないかな。八尋君になら子供の頃のことも話すかもしれない」
とても簡単にそう言われたが、
「え……でも」
当時の阿坂は4つとか5つとか、そんな年齢だ。
大人でも良く分からないような専門的なことを理解していたとはとても思えなかった。
なのに。
「うん、でも、理志君は当時からおおよそのことは判っていたと思う。一口で『頭がいい』って言ってもね、あの子の場合、普通に想像できるようなレベルじゃなかったんだよ」
そう言われてもなお俺にはピンと来なかったけど。
その後聞いた話は、なんとなく阿坂らしいと思った。
「理志君がナインやテンの詳細を知ってるんじゃないかと思われる理由はいくつかあるんだけどね、その一つが―――」
まだ母親が生きていた頃から、何度か阿坂宛てに匿名の手紙が届いた。
しかもその内容は誰にも解読できないような暗号で書かれていたという。
「でも、理志君はそれを読んで、返事を書くと言い出したんだ」
差出人の住所はなかったから、書いたとしても出すことは出来なかっただろうけど。
でも、阿坂はそれ以降も手紙が来るたびに母親の元へ走っていったらしい。
「それも、手紙が届いた後は必ず母親の病状についていくつか質問をするんだ。だから、それは阿坂教授からの手紙で、中には『X10』のことも書いてあったんだろうって、スタッフの間ではまことしやかに噂されていた」
手紙が来たことを聞きつけると必ずスタッフの誰かが「何が書いてあったか」を阿坂に尋ねた。
でも、返事は『読めなかった』の一点張りで、その後は口を閉ざしてしまい、しかも数日間は誰とも口を利かなかったらしい。

普通の子供ならそんな嘘も通っただろう。
でも、阿坂の言い訳を信じる者はいなかった。

「何通目かの手紙が届いた時に何とか解読しようって話になったんだけど」
専門家を呼ぶ手配をしている最中に、手紙はいつの間にかなくなっていた。
保管していたのは旧研究所の鍵のかかったキャビネットの中。
関係者のうちの誰かが処分したのは間違いないという。
「霧生だったんじゃないかって……僕は思ってるんだけどね」
いずれにしても、その後、阿坂は手紙のことを一切話さなくなり、そこに何が書かれていたのかは分からず仕舞いなのだと溜め息をついた。
「でも、残った資料は? 読んでも手がかりになるようなことは書いてないんですか? っていうか、今は誰がその研究を?」
あのタヌキ教授がまるで自分の研究のような顔で独り占めしているのだとばかり思って矢継ぎ早に質問をしたが、実際はそうじゃなかった。
「あそこでは、もう誰もその研究を続けることはできないんだよ」
父親の失踪と同時に『オリジナル』と呼ばれていたナイン・ウィルスの原種は行方不明になった。
ウィルスを保有していた実験動物もあっという間に死んで、それ以降、あの研究所に生きたウィルスは存在しないのだという。
「当時の研究では、キャリアとして生まれたものだけはなんとか生き延びることができるだろうと言われていたんだけどね。結局、それも健康な個体の三分の一ほどしか生きられなくて……」
そこまでは何気なく聞いていたけど。
その後に告げられた言葉に言い様のない怒りが湧いた。
「だから……理志君が感染していないと分かった時、スタッフはみんな酷く残念がっていたよ」
研究を続けるために、どうしても生きているウィルスを保有している人間が欲しかったのだ、と。
そう呟いた後、加地さんは沈鬱な表情で俯いた。
「ひどい話ですね」
「うん……霧生もそう言ってたよ」

霧生という男が初めて研究所に来た時、阿坂はまだ5つだった。
頭が良く、言うことも態度も変に落ち着いていて、食事さえ与えておけば一人でもそれなりに生活できるような子供だったらしい。
「人に甘えることもなくて、大人が可愛いと思うタイプからは程遠かった。だから、スタッフは誰も世話を焼かなかったし、同情もしていなかった。でも、霧生だけは可哀想だって言って―――」
ただそれだけの理由で、残りの時間を阿坂と過ごすことを決めた。
その時、彼の余命は一年と言われていたらしい。
「二人で暮らすようになってから理志君はずいぶん子供らしく笑うようになったよ」
本当は我慢していたのだと気付いた時、スタッフはみんな一様に罪悪感を抱いたのだ……と、少し苦い表情で語ってくれた。
「そうですか。俺は阿坂の笑った顔なんて見たことないですけど」
いつも感情なんてどこかに置き忘れたみたいな顔で、周囲を静かに眺めているだけで。
出会った日から今日まで、楽しそうに笑ったことはなかった。
「そう……それも僕らのせいなのかもしれないね」
独り言のようにポツリと呟く。
そんな言葉にも溜め息が混じる。
加地さんにとってそれはきっとつらい思い出なんだろう。
そう思ったらどう声をかけていいのか分からなかった。
「……霧生にあんなに頼まれていたのにって、何度も思ったよ」
自分の過去を隠すのに必死で何もしてやれなかった、と。
そう言って目を伏せるのをただ見ているしかなかった。



その後はサイドテーブルにはめ込まれている時計の文字が点滅するのをぼんやりと眺めながら、俺も加地さんもしばらく黙り込んでいた。
聞きたいことは他にもたくさんあったはずなのに、なんだか思い出す気力さえなくなっていて、今日はもうこれくらいにしておこうかと思った時、不意に尋ねられた。
「……阿坂教授が死んだかもしれないって聞いた時、理志君は何か言ってた?」
加地さんは、多分、阿坂が悲しんでいたかどうかを知りたかったのだと思う。
けれど、それは俺にも分からなかった。
「特には……残っていたレポート類は見られるのかって聞いてたくらいで」
少なくとも表面的にはいつもとあんまり変わりなかったと答えると、少し落胆したような表情で「そう」と言って肩を落とした。
「……理志君は……今でも母親だけ助けられなかったことを良くは思っていないのかもしれないね」
父親と母親が一緒に感染して。
助かったのは父親だけ。
阿坂は子供の頃からそれを知っていたという。
「仮にテンが存在したとしても、全ての人間に同じ効果が期待できるわけじゃない。たまたま運悪く彼の母親には効かなかったって……それだけのことなんだけどね」
だとしても、幼い子供にとってつらい事実に変わりはないだろう。
「だからね」と、加地さんは言ったけど。
「でも、報せを受けた時、阿坂は動揺していたと思いますよ」
少なくとも父親の死を歓迎しているようには見えなかった。

『死んでいたらいいのに……と、思うことはある』と言っていたはずなのに。
死んだかもしれないと言われた時の阿坂の表情はどうしてもそれと結びつかなかった。

「……阿坂の父親って、どんな人だったんですか?」
加地さんが知っているのは20年も前のことだけど。
「研究熱心で誠実で真面目で、今警察が調べているような特殊な組織にかかわりを持つような人ではなかったよ」
自ら望んでそこにいるわけじゃないのは確かだろうという説明に俺も少なからずホッとした。
「阿坂教授を幽閉していた連中がナインをどう加工して、何に使おうとしているかなんて考えたくもないけどね」
悪くすれば阿坂の父親も犯罪者だ。
そんな事態にだけはなって欲しくないと呟いた時、
「それは、きっと大丈夫だよ」
俺を宥めるようにそんな言葉を口にした。
「研究者としてのプライドだってあるだろうし、なにより、理志君にこれ以上つらい思いをさせたくはないだろうから……」
血の繋がった親子なんだから、わが子の幸せを願う気持ちくらい持ち合わせているはず。
それは根拠のない希望だと思う。
でも。
「……そうですよね」
無理矢理感情を押し込めながら父親の死の報せを聞いていた阿坂のことを思うと、そう願わずにはいられなかった。



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