X-10
(エクス・テン)

<31>




簡単な食事をテイクアウトして部屋に戻った時、阿坂はぼんやりと窓際に立っていた。
もちろんシャワーは浴びてなくて、服もまだ濡れたまま。
開け放った窓から、大通りの車の音がかすかに聞こえていた。
「あー、もう。そんな格好してたら風邪引くって」
声をかけられてもまだ感情が戻らないような顔で。
ゆっくりと振り返った阿坂にタオルとローブを渡してバスルームに押し込んだ。
「……ってか、着替えがなかったよな」
荷物は前に泊まっていたホテルに預けたままだ。
バッグの中には一回分の着替えしか入っていないことに気づいた。
「まあ、バスローブはあるから、飯食う間くらいはいいとして……あ、クリーニングって手があるか」
金はもらったばかりだが、そんなにポンポン使っていいものかを思案していたら、突然電話が鳴ってドキッとした。
点滅していたのは、フロントを示すボタン。
『お荷物をお預かりしていますので、よろしければお部屋までお持ちいたしますが』
ホテルマンが聞き取りやすい英語でそう案内してくれたが。
「え……何の?」
心当たりがなさ過ぎて部屋を間違えてるんじゃないかとまで思ったのに。
『衣類と伺いましたが。お知り合いでは?』
持ってきたのは「エドワード・なんとか」。
それだけは相変わらず聞き取れなかったけど。
要するに助手の名前だった。
「あ、うん、知り合い」
衣類と言うからには私室から着替えを持ってきたってことなんだろう。
もう世話はいいからと言われたはずなのに。
「……ま、いっか。クリーニングに出さなくて済むからな」
そう思いつつ届けてもらった袋を愛想良く受け取った。
チラッと中を覗くとやっぱり阿坂の服。
電話をかけた時、雨に降られたってことと、ホテルで俺と会うつもりだってことを聞いたんだろう。
「それとも『今日はここに泊まるから』って阿坂が言ったのかな」
だとしたら、俺としてはちょっと期待してしまうんだが。
でも、何の用事でここに来たのかってこともさっきの阿坂の表情から既に薄々勘付いているわけで。
「その後で同じ部屋で寝るっていうのはアリなのか?」
ちなみに部屋はツインなんだけど。
でも、ベッド間の距離はほとんどない。
「まあ、その辺の感覚は普通とズレてるっぽいからな」
おそらく自宅に泊めてもらった時と同じ状態になるんだろう。
俺を思いきり振った直後に平然と隣で眠る阿坂の顔が過ぎっていった。
「……悪気がないのは分かってるんだけどな」


ぶつくさと独り言を言っていたら、阿坂がバスローブ姿で出てきた。
「これ、おまえの着替え。助手が持ってきたらしい」
袋を差し出すと阿坂は何か言いたそうに口を開きかけたが、結局黙ってそれを受け取るとバスルームで着替えてきた。
「適当に食うもの買ってきたけど、好き嫌いとかないか?」
突っ立っている阿坂が着ていたのはおよそルームウェアのようなものではなく、ワイシャツと黒いパンツ。
墓の前で寝ていた時と同じような服だから、それが普段着なんだろうけど。
率直な意見を言わせてもらえるなら、その格好では寛げない。
それよりも。
「あの野郎、もしかしてわざとそういうのを選んだんじゃ……」
「何の話だ?」
「いや、なんでもない」
俺が助手に悪い印象を持ちすぎているだけかもしれないが、絶対にそうだという気がした。
あるいは、助手が俺に対して抱いている不信感がその衣類の選択にあらわれているだけかもしれないが……。


俺がシャワーを浴びて戻ってくる頃には阿坂の髪もすっかり乾いてドライヤーの熱風にサラサラとなびいていた。
「んじゃ、メシ食うか」
テレビをBGMに当たり障りのない話をしながら食事を済ませる。
阿坂が無口なのはいつものことだけど。
「もう雨止んだかな。明日って天気はどうなんだろう」
今日はさらに反応が薄く、何を話しても適当に相槌を打つ程度。
食べたものを片付ける間も、終始ぼんやりとしていた。
父親が死んだかもしれないって時だから当然だろうけど。
それにしても。
「大丈夫か?」
背丈が同じくらいだから、立っても座っても目線の高さはほとんど一緒。
けれど、今夜の阿坂はずっと伏目がちで、全く俺の目を見なかった。
それは明らかに俺に対しての罪悪感とか、そういう種類のもので。
だったら、先に聞いてやった方が阿坂は楽なのかもしれないと思う反面、気まずくなるのはやはり嫌で。
無意識のうちに本日のメインであるはずの話題を遠ざけていた。
「まあ、あんまり無理すんなよ」
聞いているのか、いないのか、良く分からない表情で曖昧に頷く。
阿坂の視線の先はサイドテーブルに置いてあった加地さんの電話番号。
「ああ、それ、会社の先輩の。偶然そこで会って」
それ以上の説明はしなかった。
でも、阿坂はすぐに、「キシ ショウジ」という名前を告げた。
「え?」
「今の場所に移転する前、研究所で働いていた」
加地さんの当時の苗字は聞き忘れていたが、下の名前は確かに「正司」だ。
会社のキャビネットのプレートにそう書いてあったことを思い出しながら頷いた。
「うん、そう言ってたけど。……でもなんでそんなこと分かるんだ?」
阿坂が見ていたのは名刺の裏だ。
電話番号以外は何も書いてない。
なのに。
「数字に見覚えがある」
「それだけで判るのか?」
確かに加地さんの文字も相当癖があるけど。
「だって、それって阿坂が子供の頃の話なんじゃ……―――」
阿坂は当たり前のように頷いてから、「生きていたんだな」と物騒な感想を述べた。
阿坂は加地さんのことをどう思っているんだろう。
「加地さん、ずっと阿坂のことが気になってたって言ってたよ」
少し心配しながら反応を窺ったけど。
「霧生が……いろいろ頼んでいたからな」
忘れてくれてよかったのに、と呟いた顔にマイナスの感情は見えなかった。
ただ、その時阿坂の口から小さな溜め息が漏れて。
空気がまた少し重くなった。

「とりあえず、座って話さないか?」
なんとなく落ち着かないのは立ったまま話しているせいじゃないんだろう。
雨も上がって、外は星が見え始めていたけど、隣に座っている阿坂があまりにも無表情で、和やかなムードからは程遠かった。
「なんていうか……あんまり気を落とすなよ」
まだ死んだと決まったわけじゃないのに、こんな励ましは却って落ち込ませるだけかもしれない。
でも、阿坂はやっぱり淡々としていて、本当の気持ちは見えなかった。
「八尋こそ、気を遣わなくていい。どうせ父親のことはあまり覚えてない」
自分の中にはもうおぼろげな実像しか残ってなくて。
記憶のほとんどは周囲の人間が語った事と写真の顔なのだと阿坂は言うけど。
スタッフの一人に過ぎなかった加地さんの文字の癖まで覚えているのに、父親のことだけ忘れたとも思えなかった。
「阿坂、お父さんのこと嫌いなのか?」
幼い自分と病気の母親を置いて失踪したことを恨んでいるのか。
それとも、一緒に感染したはずの父親だけが助かったことを疑っているのか。
そんなことまで考えたけど。
「……別に」
わずかに首を振って。
少し迷ってから、話してくれた。

以前から父親がどういう場所に囚われているのかを知っていたこと。
倫理に背くような研究を続けて犯罪者になるくらいなら、死んでいてくれた方がいいと思ったこと。
そして、今でも確かにそう思ってるはずなのに、報せを聞いてひどく動揺しているってことも。

「……そっか。なんか、ホッとしたよ」
結局、俺は気持ちのどこかで、阿坂が父親の死を望むような人間であって欲しくないと願っていたんだろう。
「警察の人、あれから何か言ってたか? 残ってたレポート類っていつ見せてもらえるんだって?」
安堵感のせいでやたらと口数が多くなって。
でも、そんな気分も長続きはしなかった。

「八尋に、話があって来たんだ」
時計の文字を見つめながら、かすれた声が告げる。
「あ……うん。そうじゃないかって思ってた。いいよ、何?」
話しにくくないようにと、できるだけ軽く促したつもりだったけど。
阿坂はその先をなかなか言葉にしなくて。
見ているこっちがつらくなってしまった。
「別に気ィ遣わなくていいよ。振られるのは慣れてるし」
そんなこと自慢にならないけど。
それで少しでも気持ちが軽くなるなら、このまま笑って流そうと思った。

手を伸ばして触れた髪がサラリと指からこぼれ落ちて。
また瞳に影を落とす。
「ほら、そんな顔するなって」
その後で、やっと。
「ごめん」と、小さな呟きが聞こえた。

やることが残っているから。
一緒には行けない、と。
俯いたまま口にしたのはそんな言葉だった。

「……うん。分かった」
今はまだ駄目だというなら、いくらでも待つつもりだった。
「落ち着いたら連絡くれよ。後でメールアドレス教えるから」
その後。
「ずっと待ってるから」と、言うべきかを迷って。
でも、やっぱり思いとどまった。

阿坂の負担にはなりたくない気持ちが半分と。
告げた時に返ってくる表情が少しでも迷惑そうだったら、と思う気持ちが半分。
俺自身が落ち込んでしまったら、この後阿坂を励ましてやることができない気がして。
だから、言えなかっただけかもしれない。

時間にしたら、ほんの数秒。
でも、沈黙に息が詰まって。
無意識についた溜め息が阿坂には聞こえてしまったんだろう。
「じゃあ―――」
そう言って立ち上がると濡れた服を袋に押し込んだ。
「え? 帰るのか?」
泊まっていくものだと信じて疑ってなかったから、思いきり慌ててしまった。
「な、ちょっと、待てって」
追いかけるように立ち上がって。
気がついたら、乱暴に阿坂の腕を掴んで強く引き寄せていた。

驚いた顔が振り返るのと同時に体がぐらりと揺れて。
次の瞬間に俺の腕の中に倒れこんだ。

「……あ……っていうか、別に、帰らなくても―――」
引き止める言葉なんて何でもよかった。
阿坂だってまともに聞いてはいなかったと思う。

目が合った瞬間に言葉が止まって。
その後でほんの偶然のように触れた唇がかすかな温度を残す。
謝ろうかと思ったのは一瞬。
でも、身体に回された腕を阿坂が拒まなかったから。

このまま、行くところまで行くんだろうって思った。



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