X-10
(エクス・テン)

<32>




無意識のうちに抱きしめる腕に力がこもる。
「阿坂―――」
少しでも自分に気持ちがあるのか、それとも、ただ気を紛らわせるための相手に過ぎないのか、それが不安だっただけなのかもしれない。
「……俺のこと、どう思ってる?」
今更、そんなことを確認したからといって、どうなるわけでもない。
その時はそう思っていた。
でも。

「友達だと、思っているよ」

そんな返事を聞きながら。
それじゃダメなんだ、と思える程度には理性が残っていた。
「……そっか」
阿坂の返事に不満があったわけじゃない。
会ってまだ間もなくて。
友達だと思ってもらえる関係になれただけでも十分なはず。
なのに落胆してしまうのは、どこかで勝手に期待していたせいなんだろう。
それだけのことだと判っているはずなのに、やはり少し苦い気持が過ぎっていく。

「じゃあ、駄目ってことだな」

吐き出せない熱と、行き場のない気持ち。
父親が死んだかもしれないなんて深刻な事態の時に、不謹慎だってことも判ってる。
なのに、心の中にどうしても消しきれないものが残っていて。

「……悪い、阿坂。もうちょっとこのままでいさせて」

ギュッと抱きしめたまま、大きく息を吐く。
そんなことをしたところで消える熱はごくわずか。
それでも、俺の勝手な気持ちを阿坂に押し付けるわけにはいかないのだから。
そう何度も何度も自分に言い聞かせて。
ようやく離れられると思った。
その瞬間。

「……八尋」

抱きたいなら、そうしてくれて構わない、と。
告げられた言葉にまた鈍い痛みが走った。
「いや……やめておくよ。そりゃあ、俺は嬉しいけど……でも、友達だと思われてたら、やっぱできないって」
こういうところが案外俺も古風なんだよな、なんて笑って言ってみても、本当はそれが理由じゃないことも判ってた。
俺が期待するような感情を阿坂は全然持ってないってことを自分の肌で確かめる勇気がなかっただけだ。

今だって、確かに腕の中にいるのに。
曖昧な表情には、諦めとか成り行きとか、そんなものしか見えなくて。
このまま抱いたとしても同じことだって気がした。

「こういうのってさ―――」

ようやく少し身体を離して、代わりにそっと手を伸ばす。
触れてた頬は確かに自分の指先と同じくらいの温度があったけど。
俺の目を避けるように壁に視線を投げ出す阿坂の顔にはやっぱり表情がなくて。

「自分がどれだけ好きかってこととか、相手が自分をちゃんと好きでいてくれてるのかとか、そういうのを確かめるんじゃなかったら、意味ないんだよ」
無理に笑ってみせると、阿坂は少し苦しそうに目を伏せる。
こんな時にごめん、って思いながらも離れることができないまま。
「たとえばさ……触ったらどれくらい温かいんだろうとか、意外とやわらかいんだなとか」
そっと頬に唇を押し当てると、感じるのは温度とかすかに香る肌の匂い。
「こんなに好きなんだなとか、もっと好きになったらどうなるのかな、とか」
自分を好きになってもらうにはどうしたらいいんだろう、とか。
日本に帰ってしまったらもう二度と会えなくなってしまうんだろうか、とか。
「八尋――――」
その先は何も言おうとしないのに。
かすれた声は、どこか苦しそうで。
「いいよ、わかってる」
そんなに何度も拒絶しなくても。
ちゃんと判っているから。
「……ごめんな。困らせるつもりはなかったんだけど」

でも。
もう少しの間でいいから一緒にいて欲しい、と。

たったそれだけの言葉を飲み込んだ。
落ち着いて話している振りをしていても、本心は欲しくて欲しくて、どうしようもないのに。
「もう寝よう。明日も研究所行くんだろ?」
疲れの見える横顔を見ながらそっと手を取って、もう一度ベッドに座らせた。
「風邪引くなよ」
黙ったままの阿坂と、どうしたらいいのか分からない俺と。

眠れるはずなんてない。
阿坂だって同じ気持ちだろう。
だからこそ、わずかに開いた唇が何かを告げようとする。
少し苦しそうな顔で。
でも、触れていた手をほんの少しだけ握り返して―――――

それでも、結局、何の言葉もないまま。
阿坂はベッドに横になると静かに目を閉じた。
こぼれる髪と、投げ出された手足と。

「阿坂――――」

堪えきれずに重ねた唇のやわらかさが、残酷なほど甘く感じられて。
そのまま。
ギュッと抱きしめて、深く呼吸を奪った。

その先を思いとどまることができたのは、理性でもプライドでもなく。
せめて少しくらいは「いい友達」のままでいたいという、それだけの理由でしかなかったけど。
「八尋」
「……ん……何?」
「もう、日本に帰れよ」
突き放すような言葉とは裏腹に、頬に触れている手を払いのけることはしなかった。


眠ることもできないまま。
ゆっくりと夜は更けていく。

「……そういえば、自宅謹慎どうなったんだ?」
なんでもいいからと、思いつく限りの言葉で沈黙を消そうとしたけれど。
「しばらくはそれも保留だろうな」
どんな話題を選んでもどこか空回りしているような気がして。
そのうち、「大丈夫か」とか「あんまり気を落とすなよ」とか、そんな言葉を並べるだけになった。
そして、阿坂もそのたびに「大丈夫」と同じ答えを繰り返した。


枕元に置いた腕時計。
一分間ってこんなに長いんだなと思いながら秒針を見つめる。
「……お父さん、生きてるといいな」
そんな問いかけに対して、阿坂は何も答えなかったけど。
代わりに母親の病気のことを話してくれた。
「彼女が助からなかったことは父親のせいではないし、仕方のないことだったと思っている」
そんな言葉は俺を安心させるためのものに過ぎないのかもしれないけど。
でも。
病気の経緯とか、治療の過程とか。
子供の頃からすぐ近くで見つめてきた阿坂にしか分からない気持ちが含まれているんだろう。
もちろん当時の阿坂に十分な理解はできなかっただろうけど。
最後まで傍にいられてよかったと思っていると静かな声で告げた。
「でも……つらかったんじゃないのか?」
それがわずか五歳の子供にどれほどのショックを与えたかなんて想像もできないけど。
「怖かったよ。すぐ隣にいるのに、自分が眠っている間に死ぬんじゃないかっていつも思っていた」
症状が進むと睡眠中に呼吸困難になる。
それを何度か繰り返した後から、阿坂はぐっすり眠ることはできなくなったのだと言った。
「けど、一応医者がついてたんだろ? 夜中だって近くに研究所のスタッフがいたんじゃないのかよ。様子がおかしかったら起こすとか病院に連れていくとかしてくれるんじゃ……」
加地さんの話の通りなら、部屋にはカメラだってついていて四六時中スタッフが監視していたはず。
なのに。
「―――いや」
それをしてくれる人はいなかったんだ、と掠れた声が答えた。
「今でも夢に見るよ。誰か呼ばないとって思いながら、そういう時に限って声が出なくなるんだ」
過ぎてしまった日のことであったとしても。
阿坂の中にはまだ癒えない傷が残ってる。

かすれる声と、眠れない日々と。
薄れることのない記憶。

「八尋がいると安心する」
伸ばされた手がそっと俺の頬に触れた。
「友達」だと思っている相手が側にいるなら、眠ってしまっても大丈夫だと心のどこかで思うからってことなんだろう。
「……そっか。じゃ、もう寝るか」
頷いた表情は思っていたよりもずっと穏やかで。
それが俺自身の安堵に変わる。
「おやすみ」
「……八尋も」

空が白みはじめる頃、ようやく宙を見つめていた阿坂の瞳が閉じて。
眠り落ちる直前に。
彼女だけ血液型が違ったんだ、と。
かすかにそんな呟きが聞こえたような気がした。



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