X-10
(エクス・テン)

<35>




本当のことを言うと、それでもOKはもらえないと思ってた。
だから。
「え……本当に?」
思わず尋ね返してしまったのだが、阿坂は曖昧な頷きだけを見せ、すぐに私室の中に置いてある荷物をチェックしはじめた。
「もしかして、今すぐここを出ようとか思ってんのか?」
手際よくパソコンのデータチェックまで始めた様子に面食らっていると、
「警察にはしばらく日本で療養してくるつもりだと言っておくから」
そんな返事があった。
「あ、じゃあ、連絡先はとりあえず俺の会社でいいよ。個人宅じゃなければダメっていうなら俺のアパートの電話番号教えるし」
でも会社なら必ず誰か電話番がいるから、連絡がつかないということがなくて安心だろうと提案すると、阿坂は無言で頷いた。
「けど、仕事は大丈夫なのか?」
一緒に来て欲しいとは言ったものの、こんなに突然だとあれこれ心配になる。
なのに、阿坂はそれについても軽く「大丈夫だ」と言い切ってパソコンを閉じた。
「どちらにしても、こんな状態ではしばらくはまともな仕事なんてできないからな」
確かに事件の調査が一段落するまでは落ち着いて研究はできないだろうけど。
それにしても……と思う俺を置き去りにして阿坂はさっさと話を進めていく。
「共同ラボにある荷物を整理してくる。必要なデータだけ持ち出すから、八尋はそれを持って先に待ち合わせ場所に行ってくれないか」
書類用の封筒一つ分程度だからと言われて、中味はどんなものなんだろうとぼんやり思った時、まるで気持ちを読んでいるかのように説明があった。
「所への所有者登録が自分の名義かつ持ち出し許可が下りているものだけだ」
だが、警察が来ているような状態で、しかも阿坂自身は今回の事件の関係者だから、どんな簡単な内容でも詳細まで調べられるだろう。
その点、俺なら持ち物をチェックされることもない。
すぐにはここを出るためにはそれが一番いいからと言われて、押し切られるように頷いた。
「じゃあ、そういうことで。荷物はカフェに取りに来てくれ。八尋がここに忘れていったことにして、立ち寄ったら渡すように頼んでおくから」
準備ができるまでロビーのような人目につく場所で時間を潰し、20分後にカフェで荷物を受け取る。
「その後はすぐにここを出て、まっすぐ待ち合わせ場所に」
「うん。わかった」
お互いの腕時計が合ってるかどうかを確認して。
手順をもう一度おさらいして。
「じゃあ、後で」
目も合わせずに部屋を出て行く阿坂の背中を見送ってから、その慌しさになんだか呆然としてしまった。
「まあ、とにかく……言われたとおりロビーに行くか」
イマイチこのスピードについて行けてない気はしたけど。
「今回の事件のことは後々記事になるかもしれないし、メモくらい取っておかないとな」
そんなことをあれこれ考えながらロビーの片隅にあるソファに腰を下ろした。
「ってか……俺、このまま阿坂と日本へ帰るんだよな?」
一息つきながら自分に問いかけて。
でも、あんなに望んでいたはずなのに、なぜか手放しで喜ぶことはできずにいた。
必要以上に慌しかったせいだろうか。
それとも――――
「……もっとゆっくり準備してからでよかったのに」
ここまで来てためらうのは、無理矢理承諾させたことへの罪悪感なのかもしれない。
そんなふうにあれこれと理由をつけてみても、そのどれもがしっくりこなくて、ゆっくりと進む時計の針にさえ、わけもなく焦りを掻き立てられるような気がした。



「おはようございます、八尋さん。ドクターと一緒に呼び出されたんですか?」
どれくらい経過したのかもわからないまま、声に反応して顔を上げると受付嬢が爽やかな笑顔で立っていた。
よく見るともうスタッフは大半が出勤しているらしい。
受付ブースにもうひとりの子も座っていた。
「あ……うん、まあ、そんな感じかな」
曖昧な答えを返しながら、そそくさとノートをしまいこんだ。
真っ白な紙面を見ながら固まっているヤツなんてどう考えても怪しすぎると思ったからだ。
「じゃあ、用事も済んだし、俺もそろそろ行こうかな」
まだ15分ほどしか経っていなかったが、カフェで待っていれば阿坂がくるだろう。
そう思いながら大きなバッグを肩にかけて席を立った。
だが。
「申し訳ありませんが、バッグの中を拝見できますか?」
その瞬間警備員に呼び止められ、別にやましいことをしているわけでもないのにドキッとした。
「え……ああ、えーと」
身内のカードを持っていれば持ち物チェックは断れることを思い出したが、ここで拒否すれば余計に怪しまれるだろう。
どうせ着替えしか入ってないからすぐに済むだろうと思ってその場でバッグを開けたが、チェックは思ったよりもずっと細かいところまで入れられた。
メモやら愚痴やらラクガキやら、何一つまともなことは書かれていないノートまでパラパラとめくられた時にはさすがに赤面しそうになったが、いかにもこちらの人風情の警備員に日本語が読めるとも思えなかったので何事もないような顔でやり過ごした。
「ご協力ありがとうございました」
チェック後はすぐに開放してくれたが、これでは阿坂に渡されるデータも例外ではないだろう。
「……どうすっかな」
少し考えた後、「もしかしたら」という方法を思いつき、通用口をくぐって外に出た。


「方向的にはこっちだよな――――」
案内図を思い浮かべながら、建物の外をグルリと歩いてカフェの裏口に向かう。
こっそりおばちゃんに声をかけて、勝手口から預かり物だけ渡してもらう作戦だ。
「だいたいこの辺りのはずなんだけど」
同じような窓と壁が続くだけなので、まったく自信はなかったが、キョロキョロしていたら天の助けのように犬の鳴き声が聞こえてきた。
声のした方に走っていくとそこには犬小屋とおばちゃんの姿。
「あら、ヤヒロ。おはよう。朝から散歩なの?」
じゃれつきたそうな犬に声だけかけながら、外に置かれていたダンボールを運び入れる。
その後ろ姿に向かってできるだけ自然に言葉を返した。
「うん。いい天気だからと思って」
そうねえ、なんて暢気な返事が一旦裏口のドアの中に消え、それからまたひょいっと笑顔が覗いた。
「そうそう。さっきドクターからヤヒロの荷物を預かったわよ。待っててね。今持ってくるから」
「あ、ありがとう。探してたんだ」
いかにも「うっかり忘れてきた」って顔を作って礼を言って。
「でも、ここで受け取って構わないのかな」
我ながらわざとらしいけど。
おばちゃんに迷惑をかけることになるとやはりちょっと悪いと思うわけで。
なのに。
「あら、お客さんの荷物はチェックなんてしないんだからどこで渡しても大丈夫よ」
おばちゃんはあっけらかんとそう言うと、俺の鞄を勝手に開けて阿坂が用意したB5サイズの封筒を押し込んだ。
「もう忘れ物しちゃダメよ」
「あ、うん。気をつけるよ」
笑顔でもう一度礼を言って。
それから。
「俺、もしかしたら今日で仕事終わりになって日本に帰るかもしれないけど」
また手紙でも書くよ、と急いで別れの挨拶をして手を振ろうとしたが。
とたんに裏口からわらわらとおばちゃんたちが出てきて、すぐには立ち去れなくなった。
「さみしいわねえ」
「また遊びに来るのよ」
「ここの住所ちゃんと英語で書けるわね?」
そんな見送りに少し感傷的な気分になりながら。
それでもなんとか無事に役目を終えて研究所を後にすることができた。




「阿坂、もう来てるかな」
待ち合わせ場所はあの水を溜めたようなビルの前。
広場にあるベンチに座って待っていてくれと言われていた。
だが、行ってみるとそこにいたのは阿坂ではなくて。
「八尋、こっちだ」
見慣れた顔がいかにも能天気そうな笑みで俺を手招きした。
「……編集長、なんでこんなところに……」
車まで用意して。
しかも、運転席には加地さんが座っていて。
「事情は後でゆっくり話す」
いいから中に入れと言って、いきなり俺を車に押し込んだ。
「でも、俺、阿坂と待ち合わせをして―――」
言いかけたが、その瞬間に頭を鷲掴みにされて、
「ほら、あそこ」
無理矢理クイッと斜め上に顔を向けられた。
「え……阿坂?」
ビルの二階、見えたのは白いシャツの後ろ姿。
携帯を耳に当てて、透明な柱に寄りかかっていた。
「どういうことですか? だって、俺―――」
ベンチに座って待っているようにと言われたのに……と。
言いかけた時、不意に助手席に放り出してあった電話が鳴った。
「八尋君、きみにだよ」
加地さんから渡されたそれを耳に当てると、少しかすれた声が俺の名前を呼んだ。
『八尋?』
「……うん」

テラスの隅に立ったまま、ほんの少し体をこちらに向けて。
斜め後ろから頬と口元だけが見える程度だったけど。
それでも俺はちゃんと会えたことにホッとしていた。
なのに。

『ゆっくり話している時間はないから』
もうすぐ研究所から迎えが来ると言われ、「どういうことなんだ」と尋ねたが、いつまで経ってもそれについての答えは返ってこなかった。
「俺、おまえから―――」
荷物も預かってるし、と言いかけたけど。
その言葉もすぐに遮られてしまった。
『それは八尋に』
最初から渡すつもりだったと言われて、また一層状況が飲み込めなくなって。
「なんでだよ……だって、一緒に帰るって」
その言葉がその場しのぎの嘘に過ぎなかったってことくらい、もうその時はちゃんと分かっていたけど。
でも、どうしても納得できなくて。
携帯を持ったまま車を飛び出そうとしたがドアは開かなかった。
「ごめんね、今は運転席からしかロックの解除ができないようにしてあるんだ」
加地さんが申し訳なさそうに説明をするのを聞きながら。
それも阿坂が頼んだことなんだろうって気がしていた。

『八尋―――』

呆然としている俺の手の中。
携帯から、また阿坂の声が流れてくる。
『落ち着いたら、連絡するから』
だから、今は何も言わずに日本に帰ってくれないか、と。
告げた声は決して無感情ではなかった。

「そんなこと言われても、俺、おまえだけ置いて帰れないよ」

一緒に行こう、と。
悪あがきのようにもう一度言って。
でも。

『……頼むから、もう行ってくれ』

きっとまたいつか会えるから、と告げた横顔はやっぱりどこか苦しそうで。
俺にもその心境を推し量ることくらいはできた。
でも、何ひとつ言うべき言葉が浮かばなかった。

『八尋―――』

日が差し込み始めたテラスの片隅。
ようやくまっすぐこちらに視線を向けた阿坂が、俺の名前を呼ぶ。
いつになく穏やかな声と表情で。

『会えてよかった』

それだけ言うと、ゆっくりと携帯を耳から離してまた背中を向けた。

「ちょっと待て! まるっきりこれで最後みたいな言葉だけ残して切るな!……阿坂っ!!」


途切れた音。
それと同時にすぐ後ろで道路わきに寄せられた車。
下りて来た男たちの中に助手の姿が見えて、それを確認した後、テラスを見上げると背中に回された阿坂の手から携帯が滑り落ちて水飛沫が散った。
透明なガラス越しに沈んで行く鈍い銀色の機械がキラキラと光を放って。
追ってきた男たちが阿坂を取り囲んだ時には、それももう見えなくなっていた。


車の中。
音の消えた携帯を握り締めたまま、俺はただ呆然としていた。
「八尋、車出すぞ」
ちゃんと見送っておけという編集長の声がやけに遠く聞こえたけど。
ただ、「会えてよかった」と言った時の、ほんの少し微笑んだような阿坂の口元だけが、やけに鮮やかに瞼に残っていた。



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