X-10
(エクス・テン)

<36>




しばらくは無言で車に揺られて。
でも、どうしても納得できず、「阿坂のところに戻る」と言ってみたけど。
「戻ったところでおまえがしてやれることなんて一つもないぞ」
一言で片付けられ、その後は口を利く気力をなくした。

加地さんが気遣ってかけてくれた音楽も耳を素通りしていくばかりで。
いったい何時間そうしていたのかも分からなかった。
「八尋君、着いたよ」
声をかけられ、車を降りるとそこは空港近くのホテル。
編集長が泊まっているという部屋に放り込まれ、ぼんやりしていたら腰かけるように促された。
「後で警察から電話がくる。そこで状況を確認して、大丈夫そうだったら帰国するからな」
今はそれが一番いいんだ、と何度も言われたけど、どうしても気持ちの整理ができなかった。
「俺、やっぱり阿坂のところに―――」
そこまで言って部屋を飛び出そうとしたが、その瞬間に丸めた新聞でパコンと頭を叩かれた。
「いい年してダダを捏ねるな。いいから、そこに座れ」
ガシッと腕を掴まれてベッドに無理矢理座らされて。
上から肩を押さえられたまま経緯を説明された。
「―――って流れだ。とにかく状況が思わしくないから、今すぐ八尋を日本に連れ帰って欲しいって頼まれてな」
あの時、確かに一緒に日本に行くと言ったのに。
データを持ち出すからと私室を出た後、阿坂はすぐ加地さんに電話をしたのだ。
「……なんで、そんな嘘までついて―――」
「おまえをどうしても巻き込みたくないってさ」
気遣いが嬉しくないわけじゃない。
けど、そんな言葉で気持ちが片付くわけでもない。
「……なんだよ、それ……」

思い出したのはホテルに来た時の阿坂。
加地さんが置いていった電話番号をじっと見つめていた。
本当は、あの時すでにこうすることを決めていたのかもしれない。

「ま、そういうことで」
相変わらず腹立たしいほど暢気な様子で煙草に火をつけながら、目を遣ったのは阿坂が俺に持たせた封筒。
中味はディスクが二枚入っていただけ。
その片方が俺宛てで、ラベルに流麗な文字で『Yahiro』と書かれていたが、説明書きのようなものは一切なかった。
編集長に急かされてパソコンで開いてみたが、中味は英語かつ専門用語。
当然、俺にはまったく分からず、仕方なく加地さんが見て。
「それで、これ、どうするの、八尋君。……なんていうか、さすがにすごいんだよね。いいのかなぁ、受け取ってしまって。ほら、これとか――――」
画面を凝視しながら、少し興奮気味に話し続ける。
それが何かの研究レポートだということだけはわかったが、詳細はどんなに説明されてもさっぱり分からなかった。
「加地……気持ちは分かるが、俺も八尋もお手上げだ。それよりもっと実用的な話をしよう」
オヤジの言うところの「実用的」ってのは、つまり「高く売れそうか」ってことらしかったが。
「企業に売るならもうちょっと手を入れないと駄目でしょうけど、二枚一緒に依頼主に売るならこのままの方が……」
俺にとっての問題は、なんでそれを俺にくれたのかということだったのに。
その理由も編集長が知っていて、それも少々ショックだった。
「借金はさっさと返した方がいいぞ、ってことだろう?」
要するに、これを売って返済に充てろということに他ならず。
「……なんだよ、他人の借金なんて興味ないって言ってたくせに―――」
それよりも。
こんな大変な時に、そんなくだらないことまで考えなくていいのに。
俺のことなんかより自分の心配をすればいいのに。
「なあ、八尋。普通は惚れた相手に『借金がある』なんてカッコ悪いことは言わないだろ?」
しかも、「そんなヤツにプロポーズされてもなぁ」とバカ笑いしてるヤツが一名。その隣に苦笑者が一名。
「違いますよ。それを話したのはまだ最初の頃で、好きになってから言ったわけじゃ……」
俺の気持ちも知らないで、好きなだけ笑いやがって。
「ってか、親しくなる前に言う方ヤツの方が珍しいって」
同情されているみたいで嫌だとか、男としてのプライドどうとか、そんな気持ちは全然なかったけど。
「……とにかく、それは阿坂に返しますから」
それは、いろんなことを我慢しながら、阿坂が何年もかけて研究してきたもので。
だから、売り払うことなんてできないと思った。
けど。
「あのな、八尋」
「なんですか?」
「それ、売っても売らなくてもおまえにもらって欲しいって言ってたぞ」
編集長が理由を尋ねた時、阿坂は『他にしてやれることがないから』と答えたらしい。
「……そんなことまで―――」
出会ってから数日。
その間、俺は一つでも阿坂に何かしてやっただろうか。
思い返してみても、眠っているところ以外は困ったような顔とか呆れた表情しか浮かんでこなかった。
「それにしても、まさに『猫に小判』ってヤツだな」
能天気な笑いが響くその傍ら、俺は何度説明されても良くわからないパソコンの画面を眺めながら、空白と混乱が交互に巡ってくる頭で阿坂のことを考えていた。

阿坂はきっと、分かっていたんだろう。
どんなに説得しても俺がすんなり諦めて日本に帰ったりはしないってことを。
だから、一番手っ取り早い方法で送り帰そうとしたに違いない。

「……なんか、悔しいよな」

同い年で。
同じ背丈で。
でも、俺だけが妙に子供っぽくて。
そんなことを考えると、またどんどんヘコんでいきそうだったけど。
「ホントに馬鹿だな、八尋は」
大げさに肩をすくめながら俺の頭を小突いて。
それから、わりと真顔で言った。
「向こうだって、そんなに冷静じゃなかったと思うぞ」
他にどうしたらいいのか分からなかっただけだろう、って。
「なんでそんなこと―――」
編集長に分かるんだよ、と突っかかりそうになった。
けど。

「―――電話の声、おまえに聞かせてやりたかったよ」

そう言われて、やっと。
別れる最後の瞬間まで、ずっと。
阿坂が一生懸命考えていたのが俺のことかもしれないと思ったら、涙が出そうになった。




「ま、元気出すんだな」
項垂れた頭をポンと叩かれ、この先どうしようかと考えている最中に警察からの電話はかかってきた。
阿坂の身柄はこのまましばらく保護することになったから安心するようにというような内容で、それには安堵したけれど。
「『このまま』ってことは、さっき阿坂を連れに来たのって警察だったんですか?」
助手がいたからてっきりタヌキオヤジの指示なんだと思っていたが、どうやらそれは違ったらしい。
「そのタヌキ教授って男とファイルを盗み出して逃げた研究員が密会してたとか、ファイルのコピーを取ってどっかに売り渡してたとかって話でな」
たまたまそれを見かけた助手がタヌキオヤジを裏切る形で、全てを警察に話したらしい。
おかげでタヌキは警察に連れて行かれ、研究所はしばらくの間閉鎖されるという話だった。
「まあ、今のところ事実がどうなのかははっきりしてないし、詳細はこれから聞き出すんだろうけどな」
しばらくは周辺もゴタつくだろうし、阿坂も警察の保護下に置いてもらうのが一番だとは思う。
けど。
「その後の仕事はどうなるんですか?」
このままタヌキが逮捕されるような事態になったら、阿坂は保護者をなくすことになる。
そしたら、研究所が再開してもそこで働くことはできないだろう。
「ついでに規則を破ってデータを持ち出してるからな。転職もかなり厳しいんじゃないか?」
他人事だと思って、編集長は軽くそんなことを言っていたけど。
「それって俺たちのせいなんじゃ……」
確認するまでもなくそういうことだ。
「やっぱり俺、もう一回阿坂のところに―――」
だが、立ち上がった途端にまたパコッと頭を叩かれ、同時に警察から二度目の電話がかかってきた。

「加地、八尋を抑えておけよ」
そう言った後、十分くらい話していただろうか。
相手の声は聞こえないし、会話も早口の英語だしで、話の内容はイマイチ掴めなかったが、時々こちらに投げられる質問によって、それが例の資料の件だと分かった。
「八尋、ファイルの番号が抜けてる部分は最初からなかったって言ってたんだよな?」
「阿坂はそう言ってました」
阿坂の父親の周りで何が起こっているのかとか、ナインの何が問題なのかとか、細かいことは相変わらずさっぱり分らない。
けど。
「加地の目から見て、それってどうなんだ?」
「うーん……でも、何らかの事情があって隠蔽したと考えるのが正解でしょうね。よほど世間に知られたくないことが書いてあったのか、それとも――――」

その時。
多分、俺は気づいてしまった。
父親がいくつかのファイルを人目に触れる前に灰にした理由とか。
阿坂が血液型にこだわった理由とか。

「八尋君、どうかしたの?」

それから。
どんなに親しくなった相手にも阿坂が絶対に言わないと決めているそれが何なのかも。

「いえ、別になんでも―――」

全てが一つの答えで。
多分、その推測は外れていない。

普通だったら、絶対に気付かなかったはず。
けど、阿坂は俺に分かるようにヒントを並べた。

母親だけ血液型が違ったこと。
ヤツらが探しているのがナインじゃないってこと。
それから、どうしてもそれが必要になったら自分のところに連絡してこいってことまで。

それに気付けば俺が阿坂から離れると思ったのか。
それとも、無意識のうちに誰かに知って欲しいと願っていたのか。
本当のところは分からないけど。

―――……だからって、そんなことで俺が諦めると思うなよ

阿坂が危惧したように、厄介なことに巻き込まれるかもしれないと思わないわけじゃない。
でも。
前よりもずっとずっと強く、思うことがあるから―――

「八尋、そうやって妙に真剣な顔をするな。似合わなすぎて笑えるぞ」
今すぐできることは何一つなかったとしても。
「……編集長」
「なんだ、改まって」
「俺、バイト辞めます。そんで、まともな会社に就職しますから」
とりあえずは阿坂をできるだけ早く迎えにいこうと決めて。
そのためには二人分の生活費を確保しなければ、と気合を入れて宣言しておいた。
当然、「借金はどうするんだ」とか、「普通に就職なんてできるはずないだろう」とか、その手のことは絶対に言われるだろうと思っていたのに。
「ふうん、そうか。それは結構なことだ。うん、いいと思うぞ。頑張れよ」
何故かそこでにっこりと微笑まれ、同時に背筋に悪寒が走り抜けていく。
「……編集長、また何か良からぬことを企んでませんか?」
「いいや。考えすぎだぞ、八尋。疲れてるんじゃないか?」
そんな言葉はむしろ不自然で、絶対に何かあるだろうと思ったその直後。
「というわけで仕事の話に戻るぞ。転職はそれを終わらせてからにしろよ」
全体的に消化不良のまま話を変えられてしまった。
「じゃあ、本題だ。日本に帰ったらこれをクライアントに届けて欲しい」
その手には、もう一枚のディスク。
「……クライアントって、どこの誰ですか?」
たまには全貌を明かしてから仕事の指示をしろと思うんだが。
「まあ、行けば分かる。ついでに今後のあれこれも決めてこい」
「それじゃ何の説明にもなってないと思うんですけど」
俺のセンチメンタルな気分をよそに、本日も不毛な会話に突入。
こうなるとこの先は何を話しても無駄だってことも良く分かっており、我知らず溜め息がこぼれた。
「ま、そう心配するな。悪い方には転ばないだろう。おまえがその気だってことは誰が見ても丸分かりなんだから」
「……だから、それは何の話なんですか」
話せば話すほど溝が深まる。
しかも、まったくこちらの問いに答える気はない様子で。
「頑張れよ。ここから先が重要だからな」
そう告げた笑顔がいつになく慈愛に満ちていたりしたもので。
……とりあえず、何か企んでいるのは間違いなさそうだった。



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