−epilogue−
届けろと言われたブツを持って、加地さんと足を踏み入れたのは大きな病院だった。
「けど……どう見てもそのデータってバグとかそういうんじゃないんですか?」
念のためと言って確認したディスクの中身は、まったく理解不能なシロモノで、少なくとも俺の目には何の意味もなく文字や記号が並んでいるようにしか見えなかった。
「うーん……でも、まあ、理志君が『暗号化されているので』って言ってたくらいだから、もともとこういうものなんじゃないかな?」
でも、「値段がつけられないような物らしいよ」と言われ、もともとすべてがよくわかっていない俺は「そうですか」と頷くしかなかった。
加地さんが受付で「岸」と名乗ると、奥から依頼主の秘書をしているという男が出てきた。
「お待ちしておりました。どうぞこちらへ」
案内されたのは敷地の片隅にある離れのような場所。
プレートには「C1病棟−03」と書いてあったが、通された部屋は企業の応接室という感じだった。
「お連れしました」
スーツの男が声をかけると、窓際にいた車椅子の老人がゆっくりとこちらに向き直った。
「あれ……どこかで……?」
会ったことがある。
言いかけた直後に思い出したのは牧師に見せてもらった写真。
そう、確か―――
「……阿坂の父親の恩師とかいう……」
目の前の老人は、父親やタヌキと一緒に並んでいたあの写真と比べるとかなり痩せていて、当時の面影はかすかに残っている程度。
額に傷でもなければ気付きはしなかっただろう。
いずれにしても俺は相当失礼な態度だったと思うが、老人は穏やかな笑みと共に握手を求めた。
「小田切です。きみが八尋君だね」
「あ……はい。はじめまして」
握り返した手は年齢相応にしわや染みのあるものだったけれど。
意外なほど温かくて、誠実そうで。
悪い人ではないんだろうな……と、なんとなく思った。
秘書が運んできたお茶を飲みながら、少しの世間話。
それでも、誰も本題を切り出さないようなので、気になっていたことを尋ねた。
「……阿坂をこっちに引き取るって話なんですか?」
父親に万一のことがあったら彼に阿坂を預けることになっていたと牧師が話していた。
今目の前に座っているのはその人物なのだ。
それ以外の話ではないだろうという予想は大当たりで。
「そうですよ」
穏やかな笑みを湛えながら頷く老人の顔を見ながら安堵感のような、失望のような複雑な気持ちが過ぎっていった。
「どうしてすぐに理志君を引き取らなかったのか、不思議に思っているだろうね」
言われた通り、俺はちょっと責めるような気持ちを持っていて、それを隠しきれていなかったのだろう。
「だって……もっと早ければ、阿坂だってごく普通の子供時代を過ごして、もっと早くからいい環境で働けたんじゃないかって……それに―――」
俺の知る限り、阿坂の幼い頃の話は痛々しいばかりで、お世辞にも幸せだったとは言えない。
せめてもっと好意的な人間の中で育てば、少しは違っていたはずなのに。
「今だって阿坂はいろんなことを我慢してると思います。眠れないのだってきっとそういうことが積み重なって―――」
思いつく限りの文句を教授は頷きながら聞いていた。
それから。
「言い訳にしか聞こえないだろうけどね」
そんな言葉と共にこれまでのことを話してくれた。
父親の失踪後、阿坂を引き取りたいと申し出た時にはまだナイン感染の疑いがあって外に連れ出す許可は下りなかったということ。
霧生という男が亡くなった後、再度迎えにいったが、今度は牧師が阿坂を手放さなかったこと。
「その頃の理志君は飼っていた犬と牧師さんの声以外には何にも反応しないような状態でね。担当医にも『知らない土地で暮らすことは不可能だろう』と言われていたんだよ」
自分から誰かにしゃべりかけることもなく、話しかけられても視線を動かすことさえない。
「何よりも彼の墓前を離れるのを嫌がったのでね」
そんな阿坂を無理やり連れてくることはできなかったのだと言って、教授は少し寂しげに息を吐いた。
「……そうだったんですか」
十年以上経った今でもそこは阿坂が心穏やかに眠れる唯一の場所。
当時がどんな様子だったかなんて推し量るまでもない。
「それで牧師に理志君を託し、生活資金だけを送った。時々秘書が様子を見にいったが、その時も理志君は歓迎してくれなかった」
何度「日本に来ないか」と尋ねても、阿坂は「ここを離れる気はない」と答えるだけ。
世間話さえしてはくれなかったらしい。
「気長に待とうと思っていたのだがね、私も持病が悪化してしまって」
入退院を繰り返し、この先どうなるかもわからないという日々の中、まるで何かに導かれたかのように加地さんが現れたのだという。
「僕が来たのはまったくの偶然なんだけどね。ちょうど編集長が『若き天才科学者をネタに取材を』って言い出した時で」
ここへ来れば阿坂に取材を申し込めるかどうかが分かるだろうと、ふらりと顔を出したらしい。
「まあ、そんな事情でね」
阿坂のことを気にしていた者同士、話がまとまるのは早かったという。
「本当は僕が言って話そうと思ってたんだ。でも」
阿坂が慕っていた男の友達というだけで気持ちを開いてくれるとは思えなかったし、何よりもタヌキをはじめ、当時の関係者と顔を合わせるのはまずい。
「それで俺を?」
「だって、八尋君なら理志君の希望通りの『友達』になれるでしょう? そしたら、理志君もこっちに来てもいいって言うんじゃないかって」
「……安直ですね」
だが、事情がわかってない俺にはそのへんがまったく意味不明だったわけで。
それ以上に、そんなにうまくいくはずないとは考えなかったんだろうか。
まったく、いい大人が知恵を出し合った策とは思えない。
「いや、ね、真面目な話、理志君はきっとまた断るだろうって思ってたし……だったとしても取材のネタにはなるからって編集長が……」
転んでもタダでは起きない作戦だったのか。
まあ、あのオヤジらしい発想だとは思うけど。
「でも……結局ダメだったってことですよね」
取材もしてなければ、阿坂を連れ帰ることもできず。
まったく何の役にも立ってないってことに今頃気付く。
だが、加地さんと小田切教授は二人して同時にニッコリ笑った。
「いや、まだ次の手があるだろう」
「そうですね」
そして、二人の目はまたしても同時に俺に向けられた。
「……は?」
話は簡単だった。
つまり、「阿坂がこっちにくれば、俺も教授の研究所に就職できるから」と言って呼び寄せようというのだ。
「そういうことなのだが、協力してもらえないかね?」
これでようやく編集長が俺をここに来させた理由も分かったが。
「……協力、と言われましても」
果たしてそんな見え透いた手に阿坂が引っかかってくれるものだろうか。
「大丈夫だよ。とにかく『これでようやくまともな就職ができるんだ』って嬉しそうに話してくれればいいから。ね? 『これを逃したら一生まともな職なんて見つからないから頼むよ』ってね?」
なんか、それはひどい言われようだが、事実なので否定も出来ず。
そんなことよりも。
「ってか、それって阿坂を騙すことにはならないんですかね」
いくら阿坂を日本に連れてくるためでも嘘までつくのはさすがにちょっと……と思いながら呟いたのだが。
加地さんはそれを待っていたかのようにニッコリ笑った。
「心配いらないよ。本当に就職してもらうから」
「……へ?」
「待遇も給料も今と比べ物にならないくらいいいし。何より理志君の健康状態を考えるとサポート役は必要だしね。それに理志君だって……」
大学の規則を破ってデータを持ち出したとなると、もうまともな企業の研究職にはつけないだろうから、なんて言われて。
「その点教授のラボなら特別待遇で迎えられるし、理志君も思う存分研究に打ち込めると思うんだよね。それに、八尋君もちゃんとしたところに就職したいって言ってたじゃない。だったら一石二鳥でしょう?」
「まあ……そうですけど」
嵌められた感はありありなのだが、他に返す言葉も思いつかず。
俺が「本当にこれでいいのか?」と思案している間に。
「じゃあ、そういうことで」
事はあっさりと決定になったようだった。
いや、実際マズイ点は一つもなさそうだから、俺がグズグズ言う必要はないんだろうけど。
「うーん……まあいいか」
結局、結論は出ないのに承諾をする俺。
「じゃあ、まずはこっちでセッティングするから、その時にまた声をかけるよ」
「わかりました」
就職のことはともかく。
阿坂にはどうしてもこっちに来て欲しいという、ただそれだけの理由でOKしたに過ぎなかった。
だが。
やっぱり、というか。
それには小さなオチがあった。
「あ、そうだ、八尋君。取材に行く前のことだけど、『八尋が全部OKして、この話が上手くまとまったら借金もチャラ』って言ってたから」
どうやら相当額の依頼料が入るらしく。
「あとで編集長に確認しておくといいよ」
そう笑顔で言われたのだが。
「それっていうのは」
つまり。
「最初から俺は阿坂と一緒に小田切教授のラボに売られる予定だったってことなんじゃ……?」
「え、ああ、うーん、まあ、そんな感じなのかな……?」
今更、あのオヤジの性格を疑うつもりはないが。
それにしても。
「ひでぇ……」
結果オーライという言葉もあるし、この場合は実際そうなのかもしれない。
だが、最初から本人の意思を考慮しないというのはどうなんだろう。
「……まあ……いい、か」
ここで愚痴っても仕方ない。
文句を言うのは社に戻ってからにしよう。
どうせすぐ帰るんだから、と思っていたのに。
「八尋君、少し時間をもらえるかい?」
小田切教授から阿坂のことで一つ確認したいことがあると言われ、その後は俺だけが部屋に残された。
「もう一杯お茶をどうかね?」
俺の返事を待たずにコーヒーを持ってこさせた後、教授が見せたのは意味不明文字が並ぶ紙だった。
「これはあのディスクの中身だよ。阿坂君が理志君に宛てた手紙なんだ」
この場合の「阿坂君」は父親のことだろう。
「もっともあれを読めるのは理志君と私だけだがね。他の人間が開いても壊れたデータにしか見えなかっただろう」
そういえば暗号化された手紙の話も聞いた事があった。
タヌキがずっと探していて、でも、結局見つけることができなかったもの。
「これがあるせいで理志君は研究所から一切のデータの持ち出しを許可されなかったようだがね」
阿坂がどうやって隠していたのかは分からない。
だが、そんな曰くつきのものなら当然内容は極秘だろう。
それ以上に阿坂にとって、とても大切なもののはず。
なのに。
「いつか理志君と事件のことが落ち着いたら、八尋君にも読み方を教えよう」
難しくはないから大丈夫だよ、などと軽く言われて少々面食らった。
「でも、阿坂の許可なしで……」
慌てて首を振る俺に、小田切教授はまた穏やかに微笑むとこう付け足した。
「理志君が望んだことなんだよ」
「阿坂が?」
どうしてそんなことを思ったのか俺には分からなかったけど。
でも、それは後でゆっくり本人から聞けばいい。
本当に日本に来てくれるなら、時間なんていくらでもあるのだから。
「……じゃあ、その時を楽しみにしています」
早く会いたい。
そんな気持ちで、「それじゃ」と言って立ち上がりかけたけど。
「八尋君は見かけによらずせっかちだね」
まだ話が終わっていないと笑われて、また座らされてしまった。
「それで、例の―――」
痣のことなんだが、と切り出され、
「……え?」
反射的に聞き返した後、ようやく。
「ああ、そっか」
編集長から、アザとかホクロとか、そういった身体的特徴を探してくるようにと言われていたことを思い出した。
「あれって教授のご依頼だったんですか」
誰も何にも説明してくれないんだから酷い話だと思う傍ら、教授がそれを尋ねることに違和感を覚えた。
あざとかホクロなんて普通は本人を確認するためにするものだろう。
けれど、阿坂を知っている教授が尋ねるのだから、そういう理由でないのは明らかだ。
「うーん……ええと」
このままあっさりと答えていいのだろうか。
そんなことを考えて言葉を濁す俺に、小田切教授が差し出したのはあの手の写真だった。
ただし、俺が拾ったものよりずっと保存状態が良かった。
「これはナインの症状の一つである斑なんだが、彼の左足には幼い頃これと同型の痕があってね」
色が濃くなったり、他の部分にも現れているようなことがないことを確認したいだけなのだと言われて、俺も頷いた。
「いや、大丈夫だろうということはわかっているつもりなんだがね」
どうしても心配で、というその言葉に嘘はないだろうと思った。
「だったら、きっと大丈夫です。うっすらと痕はありましたけど、でも、色は周囲と同じか、むしろ白っぽい感じで、触っても質感に違いもありませんし、ホントによく見ないと全然わからないようなものでした」
この言い方だと、俺が阿坂の素足を凝視していたことも触ったこともバレバレなのだが、教授はさらっと聞き流してくれたらしい。
「そうですか。それなら良かった」
本当によかった、と。
もう一度呟く教授の安堵した顔を見ながら、なんとなく思った。
彼はまだ他にもいろいろなことを知っているのだ、と。
「八尋君、私はこのとおりの病院暮らしで自分の身さえ思うようにならない。彼を日本に呼んでも何もしてやれないだろう。だから―――」
俺が知らないようなことも。
そして、もしかしたら阿坂自身さえ知らないようなことも。
「理志君を、頼めますか?」
なぜだか、そんな気がした。
「……阿坂が、俺でもいいって言ってくれるなら」
俺だって、きっとたいしたことはしてやれないだろう。
でも。
「俺にできることならどんなことでもしてやりたいって思ってます」
そう答える俺に、教授はまた穏やかに微笑んで、ゆっくりと一つ頷いた。
帰り際、教授は少しだけ阿坂の子供の頃の話をしてくれた。
母親が発症する前、阿坂の家はとても温かで穏やかで、招かれるのが楽しみだったという。
「当時の写真もあるから、いつか理志君と一緒に見に来なさい」
「ありがとうございます」
幼い阿坂と父親と母親。
ごく普通の、温かい家族の写真なのだろう。
けれど、阿坂本人に見せたことはないという。
理由を尋ねたら、フッと溜め息が漏れた。
「ずっと彼に見せることをためらっていたんだよ。でも―――」
今なら、もう思い出してもつらくはないだろうから、と。
そう言いながら、教授はまた俺の顔を見て。
それから、本当に安堵したように微笑んだ。
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