X-10
(エクス・テン)

<38>




このまますべてが上手くいって、阿坂が日本に来たらいいのに―――
そんな気持ちの裏側に、「結局俺は何の役にも立ってないんだな」という自己嫌悪もあったけど。
「ただいま戻りました」
「お、八尋。お疲れ。雨降らなくてよかったな」
ぜんぜん労う気持ちなどなさそうな様子で、しかも、いかがわしそうな雑誌から目を離すこともなく迎えられ、なんだか脱力。
「で、どうだったんだ?」
おまえのことが心配で仕事が手につかなかったよ、なんていう白々し過ぎる嘘を聞き流し、今日の報告。
もちろんその合間に若干の文句を盛り込むのは忘れなかった。
「なんか思いっきり敷かれたレールの上を走ってる気がするんですけど」
だが、能天気オヤジには他人を嵌めた罪悪感など微塵もないらしい。
「いいじゃないか。おまえが一緒に暮らしたいって言ったんだから、細かいことにこだわるな」
「……そうですけど」
何が不満というわけでもないのに文句を言いたくなってしまうのは、きっとこいつだけがやけに楽しそうで微妙にムカつくせいなんだろう。
「とにかくよかったな。給料、待遇、世間体、三拍子そろったまともな就職なんて一生できないと思われていたのに、これで八尋の将来も安泰だ」
確かに嘘ではない。
阿坂たち研究員と違って専門職ではないにもかかわらず、提示された初任給は高かったし、住宅などの諸手当も良い。
待遇面には文句などつけようもなかったが、だからといって「感謝しろよ」などと言われるのは少々面白くない。
「うーん……なんかなぁ……」
だが、他に阿坂を呼び寄せる策もないんだから仕方ない。
とにかく就職して、いざという時には養ってやれる程度の収入を確保しなければ……と思っていたら。
なんと、それにも小さなオチがあった。
「つっても、その前に試験があるからな」
「え?」
「試験だよ、試験。入社試験」
何度も言い直してくれるんだが。
俺が驚いたのは聞き取れなかったからじゃなく。
「それって俺が受けるんですか? っていうか、落っこちたらどーすんですか? ってか、受かるわけねーって」
突然、暗澹たる未来が降ってきたような気がした。
真面目な話、専門職でないセクションでさえ東大卒がゴロゴロいるのだ。
ズルなしで俺が入れるような場所ではない。
「絶対ムリですって」
だが、それにも編集長は余裕の笑み。
「それなら心配いらん。受かるまで何度でも受けさせてくれるらしいぞ。ま、頑張れ」
「頑張れって言われても……」
何度受けても受からないって事態は想定してないんだろうか。
溜め息と共に開いた研究所のホームページの採用欄、『入社試験一例』の項に並んだ言葉は意味不明の専門用語。
自分の脳が激しい拒否を示しているのをひしひしと感じる。
というか、こんな条件を出すなんて、小田切のジジイは本当に阿坂をこっちに呼ぼうと思ってるのか?
「そう心配するな。なんとかなるって」
「簡単に言わないでくださいよ」
あまりにもお先真っ暗で。
やはり弱気にならざるを得なかった。



数日後、編集部に「試験用の教材」が届いた。
なんというか、これがまた恐ろしいシロモノで。
辞書ではないかと思うほど分厚いテキストが何冊も入っていた。
一生かかっても読み終わらない。
というか、最近まともな本なんて読んだことがなかったかもしれない。
「試験は毎月第一および第三水曜日。八尋が受けるのは、早くても来月だな」
同封された手紙には、『問題傾向は追ってご連絡しますので、しっかり勉強してください』の文字。
「いいわよねぇ、コネ入社」
「何言ってんですか。問題傾向を教えてくれるだけで、回答を教えてくれるわけじゃないんですよ?」
つーか、コネなら無試験、あるいは最初から答えを教えてくれ。
「そういうわけにはいかんだろ。もし、まるっきりのコネで入社して、あのジイさんが死んだ日には、おまえなんて即座に路頭に迷うことになるかもしれないんだから」
それじゃ、愛弟子に託された息子の行く末も心配だろう、と言われ。
「まあ、そうですけど」
俺も仕方なく頷いた。
少なくともまともに試験を受けて入ったなら、万一の時にも白い目で見られたりはしないだろう。
これも阿坂を日本に呼ぶためなら仕方ない。


そんなわけで。
これまで暢気だった俺の日々は大学受験以上の勉強づけとなった。
しかも、今まで俺の生活にはかすりもしなかったような専門知識の詰め込みばかりだ。
最初の試験日はとりあえず1ヵ月後。それに落ちたら半月後。
それも落ちたらまたその半月後。
無事に試験に合格した後、仮採用期間を経て正式に就職。
阿坂が日本に来るのはその後になるらしい。
「……はぁ……」
思わず溜め息。
なんだかものすごく遠い未来に思えた。
がっくりと項垂れる俺の頭を編集長はポンポンと叩いて、
「でも、まあ、これを乗り切れば愛しの君と二人暮しだからな」
そんなエサで俺を釣ろうとして。
とは言っても、『阿坂と二人暮し』という極上のご馳走。
俺の単純な脳みそが反応しないはずもなく。
「……頑張ります」
こうして無理矢理気分を持ち直してまた机に向かう。

後は、阿坂次第だよな……――――

俺としては自分の試験より、そっちが気になる。
とにかく阿坂が「うん」と言わなければ勉強だって何の意味もない。
「編集長、それで阿坂は―――」
言いかけた時、まるで俺の気持ちが伝わったかのように、静かなオフィスに電話が鳴り響いた。
「よお、加地か。そっちはどうだ?」
それはまさしく阿坂からの返事が来たという知らせだった。




「それで……なんて? こっち、来られるって言ってましたか?」
掴みかかるような勢いで編集長から電話を奪ったが、加地さんの言葉は予想外のものだった。

『理志君は、「一年経ったら」って』

電話の向こうは多分、小田切教授のところだろう。
でも、ほんの少しも落胆した空気は感じなかった。
「……ってか、なんでそんな先なんですか? なんか気に入らないことでも?」
俺の不機嫌丸出しの問いにも加地さんはくすくす笑ってた。
『うん、まあ、なんていうか。向こうの研究所でもまだやることが残ってるだろうし、一年経てば事件のことも落ち着くだろうから……それくらいは仕方ないんじゃないかな。それに―――』
「それに?」
言いかけたくせに。
その先の言葉を濁して、ただ、『もう少し待ってもらえないか』と阿坂が言ってたことだけを俺に伝えた。
「阿坂がそう言うんだったら、仕方ないですけど……でも」
俺は今すぐ会いたいのに。
第一、阿坂はそうでなくても素っ気なくて、少しでも離れたら俺のことなんてすっかり忘れてしまいそうなのに。
そう思ったら急にすべてが心配になった。
けど。
「ま、一年後にすっかり忘れ去られてたら、初対面だと思って口説き直すんだな」
能天気オヤジの能天気なアドバイスで、俺の心配はあっさり片付けられてしまった。
「まったく他人事だと思って……」
その時、まるでこっちの様子が分かっているかのように、一通のメールが届いた。
それは阿坂から俺に当てた短い文章。
本当に素晴らしく阿坂らしい、見事に素っ気ない文面だったけど。
「なんだ? メールか?」
「阿坂から……試験、頑張れって。後は、専門的なことで分からないことがあったら聞いてくれて構わないって」
それと。
『一年後を楽しみにしているから』
最後の一行はそんな言葉だった。

―――……うん、俺も。

どんな気持ちでこのメールを打ったんだろう。
顔には出なくても少しは照れたりしたんだろうか。

そんなことを考えて、少し甘い気持ちになりかけた時。
「やだぁ、何ニヤけてんのよ。変なこと想像してんじゃないでしょうね?」
「気が早いぞ、八尋。試験に受かってから喜べ」
外野からは盛大なブーイングが。
「……わかってますよ」
まずは目先のことをなんとかしないと。
それは俺だって分かってるつもりだ。
「ちゃんと頑張りますって」
バッグからはみ出しているテキストに目をやりながら。
「だったらいいが、口先だけじゃなく本気で頑張れよ」
そんな言葉に本当に渋々頷いた。




それから二ヵ月あまり。
最初の試験を受けたものの、結果は玉砕。
特に英語と専門分野がおそろしい結果だったらしく。
「多少は甘い採点にするつもりでしたが、いくらなんでもこれでは―――」
例によって小田切教授の秘書という男から、思い切り駄目出しをされてしまった。
「ですよね……」
自覚はしていたものの、真正面から言われるとやはりヘコむ。
これでは一年経っても阿坂を呼べるかどうか疑わしいとどっぷり落ち込んでいたが、思いがけず救いの声が降ってきた。
「教授にご相談したところ、アルバイトとして働きながら専門知識を身に付けたらどうだろうということになりました。来週からは週に三日こちらに出勤してください。そちらの編集長さんには了解いただいていますので」
もちろん来月の試験も受けなければならないことに変わりはなく、状況はさほど好転しているわけでもなかったのだが。
「……はい。頑張ります」

あくまでも「仮」ではあったけれど。
こうして俺はなんとか新生活のスタートを切ったのだった。


おかげで翌週からは三日を研究所で、残りの二日は騒々しい編集部で過ごすことに。
しかも。
「ユキウエ、その箱、あっちの部屋に運んでー」
そんな声が、なぜか研究所の総務部で聞こえる今日この頃。
「自分で持ってきたんだから、優花さんが運べばいいでしょう?」
もともと阿坂と知り合いの加地さんはともかく、この女と能天気オヤジまで頻繁に出入りするもので、俺は時々自分がどこにいるのか分からなくなる。
「やだぁ、そんなことしたらせっかく塗った爪に傷がついちゃう」
「……あー、はいはい。わかりました。いいですよ、俺がやりますから」
本当にこれでいいのかと自問自答しつつも、適当に流す日々。

一方、阿坂は結局大学の研究所には復帰せず、そのまま小田切教授のラボに迎えられることになった。
日本に来るのは宣言通り一年後だが、それまでは自宅からそう遠くない場所にある研究所の海外分室に勤務するらしい。
警察も相変わらずの警戒態勢で、周囲をチェックしながらウィルスのことなんかを聞きにきているらしいが、捜査の方はあまり進展していないらしく、父親の遺体のことも、あのジャーナリストの消息もつかめないまま。
「警察も大変だよな」
まあ、そのあたりのことは多分これからが本番で、阿坂は当分渦中の人でいなければならないだろう。
そして、めでたく一緒に過ごせることになったあかつきには、俺にとっても他人事ではなくなるのかもしれない。
それでも。
「……早く一年経たねーかな」
きっちり一日おきに送られてくる阿坂からのメールを見ながら、残りの日々を数える毎日。
「やだぁ、仕事中に私用メールなんて信じらんなぁい」
外野のちょっかいは本日も相変わらずだが。
「これは小田切教授の指示で俺の業務の一つになってますから」
俺もそれなりにこんな状況を楽しめるようになっていた。
「どうだ、八尋。二人の愛は育めているのか? 離れている間にどうでもよくなっちまうさっぱりした奴もいるから、フォローはマメにしないとな」
それでも外野は次から次へと湧いてきて、俺の仕事の邪魔をしてくれるわけだが。
「編集長まで……いつこっちに来たんですか?」
「今日は朝から教授と一緒に茶を飲んでた」
「……またですか」
小田切教授という人物が、実はただの能天気オヤジなのではないかと思い始めたのも最近のこと。
「でもぉ、ユキウエがメールに『会いたい』とか『愛してる』とか書いてたら笑うわよねぇ」
「もういいですから、仕事の邪魔はしないでくださいってーのに」
どんなに怒鳴っても。
「いいんじゃないか。人生には笑いも大切だ」
俺の話など誰も聞いていないのも相変わらず。
「俺の勘によれば、あれは離れている間に自分の本当の気持ちを再確認するタイプだな。離れている期間があった方がいろいろと整理できて――」
「二人とも、たまには他人の話を聞こうと思わないんですか?」
そして。
「こんにちは、八尋君。調子はどう?」
「……加地さんまで……」
まったく、本当に、もう、なんていうか。
これだけは困りものだけど。
「でー、何書いてんのぉ? まさかホントに専門的な質問とかしてるんじゃないでしょうね?」
「ご心配なく。普通の世間話ですから」
阿坂と日々遣り取りするメールは、本当に当たり障りのないどうでもいいような話ばかりだけど。
それでも俺は楽しくて楽しくて仕方ない。
今日は阿坂からメールが来ると思っただけで早起きをしてしまうほどだった。
「えー、ひっど〜い。一緒に暮らそうとか言っておいて、『愛してる』の一言も言わないのってどぉなのよ?」
「だよなぁ。向こうで育ってるんだから、愛情表現は日々思いっきりするのが当然だと思ってるだろう?」
「……そんなわけないでしょう」
阿坂は確かに生まれも育ちも向こうだが。
テレビも見なければ恋愛小説も読まない上に、育ての親は牧師という環境なのだから、俺のメールに「愛してる」などという言葉を期待しているとはとても思えない。
っていうか、その前に。
「……もう俺のことはいいですから、社に戻って自分の仕事をしてください」
パソコンの画面を自分の身体で微妙に隠しつつ、少し長いメールを打つ。
「編集長、ユキウエが笑いながらメールしてますぅ」
「まあ、そう言うな。人の幸せは祝福してやらないとな」
「したくありませーん」
いいようにからかわれながら。
「あー、もう。ちょっと静かにしてもらえませんか」
そして、肝心の試験はまだまだ前途多難という状態のまま。
それでも。
「あ、阿坂からメールが来たっ」
「あー、はいはい。幸せでよかったわねぇ」
「まだ入社もしてない会社でのろけるなよ」
「……のろけてません」


騒々しい日々の中。
阿坂が決めた再会の時まで。
あと9ヶ月と16日。





                                        end
                              (Sequel to the storyへつづく)

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