X-10

Sequel to the story

<2>




それから一時間あまり。
受付から予定通り阿坂が到着したという知らせをもらって吹き抜けの二階部分の廊下に出ると、すでに野次馬連中がうろついていた。
というか、浮き足立ちまくりでちょっと微妙な空気だった。
「なんか、関係ないスタッフまで気にしすぎじゃないですか?」
今日から着任というならまだしも、とりあえず教授に挨拶に来ただけだってのに。
「まあ、それはねー……」
田辺さんも阿坂のことはちょっと苦手だから、言葉を濁す気持ちも分からなくはないんだが。
「なんだよ、ったく……」
自分が好きな相手が他人から好かれていないというのは、やはり悲しい気持ちになる。
せめていつもより少し愛想良く登場してくれたら、と祈る俺のすぐ前で、
「ほら、秘蔵っ子のご到着だ」
いかにも皮肉っぽい言葉が聞こえ、その声に反応して、二階のテラスにいた連中が一斉に一階を見下ろした。
その光景に田辺さんも、「みんな仕事さぼってきたんだね」と呆れ気味だったけど。
「……なんか想像してた通りだな」
阿坂についてはそんな感想を漏らした。

いつもと同じきっちりとしたスーツ姿。
また少し伸びたような気がする前髪。
一階ホールの真ん中に立ってスタッフから館内の説明を聞いている阿坂は、よく言えばとても凛々しく、いかにも切れの良さそうな感じで。
でも、悪く言うと。
「うはー……すっげーキツそうだな」
さすがの俺もそれは否定できない雰囲気で、今日くらいはもうちょっと愛想良くしてくれたらよかったのに……と、ひそかに思ってしまったほどだった。
「いつまでいるつもりなんだろうな。頼むからラボに顔出したりしないでくれよ」
「俺、案内係じゃなくてよかったよ。少しでも変な説明をしたらバカにされそうだ」
ただでさえ微妙な空気がまた一段と形容しがたいものになっていく中、周囲の目はひたすら阿坂に釘付けで。
ついでに。
「あの隣にいる美人は誰だよ?」
同行者にまで好奇の目が向けられる始末。
「向こうのスタッフじゃないだろ? まさか初日から女連れか?」
言われてやっと目を遣った先に阿坂よりはちょっと年上って感じの女性。
なるほど周囲がざわつくには十分な美人で、阿坂といるとなんだか人目を引く組み合わせだが、どちらかといえば「姉と弟」って雰囲気。
『女連れ』というような印象は受けなかった。
「教授の知り合いかなんかだろ? そうじゃなければ、向こうで請け負った仕事の関係か」
「だったら、案内係はジュニアより先に彼女に館内説明するんじゃないのか? 私用だよ、私用。まったく御曹司は態度が違うね」
結局、野次馬連中は阿坂に文句をつけるための粗探しに来ただけらしい。
そう思うとちょっとキレそうだったが。
それよりも。
「八尋君、阿坂ジュニア、なんだか顔色悪いよね。いつもああなの?」
「いや、そんなことは―――」
あの様子じゃここしばらくまともに寝てないんだろう。
スタッフに話しかけられても視線さえ動かさないような状態で、相当よくないってことは事情を知る人間には一目瞭然だった。
今は少し生意気そうにも見えるくらい姿勢よく、しかも微動だにせず立っているけど、少し気を抜いたらパッタリ倒れるんじゃないかと心配で仕方なくて。
「阿坂!」
どう見てもまだ説明の途中だってのに、気がついたら二階から思いきり叫んでいた。
「……八尋」
声は聞こえなかったけど。
振り返った口元は確かにそう呟いていた。
そして、俺の位置を確認すると、阿坂は館内説明をしていたスタッフに何か話していたが、すぐにフロア脇の階段を上がってここまで来てくれた。

あたりが静まり返るのと同時に靴音が響く。
サッと道をあける野次馬など少しも目に入っていないみたいに。
ただ真っ直ぐに俺の前に立つ阿坂を見ながら。
なんだかやけにドキドキして。
何から話していいのか分からなくなった。

「あ……えーと、久しぶり。その顔じゃ、あんまり寝てないんだろ?」
よほど疲れているのか、それとも精神的なものなのか。
阿坂は俺の問いかけにただ頷いただけ。
声は出さなかった。
本当はいろいろ聞きたいことがあったんだけど、ここで無理に話しかけるのはやめておこうと決めた時、阿坂の後ろから明るい声が響いてきた。
「八尋さんでしょう? はじめまして、小田切と申します」
ひょいと顔を覗かせたのは先ほど阿坂の隣にいた美人。
いつの間に上がってきたのか、ニコニコしながら立っていた。
「私、ここの所長をしている小田切の親戚で、理志君の主治医なんです」
これから日本で働くことになったから教授に挨拶に来たのだという説明があって。
「なんだ、そうなのか」と半ば安堵の気持ちで頷いていたら、彼女の顔に華やかな笑みが浮かんだ。
「八尋さんの噂、いつも理志君から伺っているんですよ」
「え?」
思わず声を上げると、阿坂がチラッと彼女に視線を投げた。
ということは、本当はそれについては内緒という約束だったのかもしれない。
そんな阿坂の態度に少しドキッとして。
でも、その反面、俺には何にも話してくれないくせに、と思いながら。
「……あ、そう、ですか。初めまして」
それでも、差し出された手を慌てて握り返した。


その後は、廊下に突っ立ったまま世間話。
「そうですか。じゃあ、今日は旦那さんの家に?」
夫がこっちに転勤になったので彼女も仕事場を日本に移すことになったのだという補足説明に、周囲からは「なんだ、人妻か」という落胆の声が聞こえたが。
「ええ。実は顔を合わせるの、三ヵ月ぶりなの」
だったらホテルの手配は要らないなと、俺はにこやかに頷いた。
主治医は確かに美人だが、俺の仕事に関係がなくて、阿坂がぜんぜん彼女に興味がなさそうだってことが確認できれば、それ以外はどうでもいい。
さっさと仕事で言い付かっていることを済ませ、ついでに自分の希望をサラッと阿坂に伝えるだけだ。
「な、阿坂。挨拶が済んだら総務に寄れよ。一緒に帰ろ。で、今日は俺んちに泊まれよ。ここから近いし、できれば夕飯も一緒に……」
そんな話の途中。
それまで目線も動かさなかった阿坂がいきなり俺の顔を見て。
「ん?……どうした?」
思わず尋ね返した時、目が合って。
それから。
「……最初に八尋に会えてよかった」
少し緊張していたから、と。
かすれた声でそう言われて。
何の心の準備もなかった俺は思いきり顔が火照ってしまった。
「あ……うん、そうだな」
っていうか、俺より前に会った人間は阿坂の記憶から抹消されているみたいなんだが。
いや、それよりも。
本当にホッとしたように息を吐く阿坂の様子が思いがけず普通っぽくて。
周囲の空気が緩むのを感じながら、なんだか俺の方がホッとしてしまった。

―――なんか、大丈夫そうだな……

この和やかなムードのまま、忘れないうちに田辺さんの紹介だけ済ませてしまおうと思ったんだけど。
「……あれ、どこ行ったんだ?」
キョロキョロしていたら、下で阿坂に館内の説明をしていたスタッフが上がってきた。
「先ほど受付に教授からご連絡があって―――」
阿坂とドクターを総務で待たせておくように言われたので、とそんな伝言があった。
おそらく今頃は田辺さんがその連絡を受けているんだろう。
「判りました。じゃあ、総務の応接でお待ちしていますので」
これで阿坂から解放されると思ったのか、
「じゃあ、よろしくお願いします」
それだけ残して案内係はさっさといなくなり、野次馬たちもわざとらしく自分の仕事に戻っていった。
「……ったく」
ここのスタッフときたら、どいつもこいつも……と思ったのが口をついて出てしまったが、それに気付いたのは美人女医だけ。
全く何も感じてなさそうな阿坂にまたホッとして。
「じゃあ、総務にご案内しますから」
笑ってごまかしつつ、二人を連れて総務部のドアを開けると、ちょうど田辺さんが電話を終えたところだった。
「あ、八尋君、今、所長秘書から……あれ、もう連れてきちゃったんだ?」
田辺さんはいつもなんとなく周囲から一歩遅れている。
たいていは微笑ましいが、たまに「大丈夫かな」と心配になる。
「さっき『総務で待ってるように』って伝言が」
「あ、そうそう、そうなんだ。お茶入れるから先に応接行ってもらえるかな」
「え……」
普段なら俺がお茶係。
で、田辺さんが接客。
だが。
どうしても阿坂の相手が嫌なのか、それとも美人を見慣れていないせいで女医が眩しすぎるのか、田辺さんは逃げるように給湯室に行こうとしていた。
しかし、そんなことが許されるはずはない。
「田辺さん、総務の責任者がお茶なんて入れてたら、教授の秘書に怒られますよ」
苦手な客の時はいつもこうやって逃げてしまう田辺さんを、所長付きの小うるさい秘書が毎度注意している。
そんなわけで田辺さんは阿坂以上に彼のことが苦手なはずだった。
「お茶は俺が入れていきますから、田辺さんは応接に二人を案内してください」
そう言われてやっと、渋々という様子で阿坂と美人女医を応接に通し、何度も振り返りながら自分も中に入っていった。
本当に。
ここのスタッフと来たら、どいつもこいつも……。
溜め息をつきながら、パントリーに立って、ふと考えた。
「阿坂、緑茶なんて飲むのかな。っていうか、お茶ってカフェイン入ってるよな?」
眠れないと言ってる阿坂にそれはどうなんだろう。
そんなことを悩んでいたら、「小田切教授お気に入りのハーブティーがありますよ」と派遣の子が声をかけてくれた。
「入れたら応接にお持ちしますから」
「ああ、ありがとう。助かる」
とは言っても、俺はのんびり茶なんて飲ませてはもらえないだろうから、三人分でいいと告げて応接に戻ろうと踵を返した。
その時。
ここにいてはいけないものが、しかも当然のように俺のデスクに座ってることに気付いた。
「ねーえ、ユキウエ。ドクターって近くで見ると意外とカワイイんじゃない?」
「……優花さん、いつの間にここへ……」
どうして、いつもいつもこういうことになるんだろう。
小田切教授もなぜか彼女に甘いため、能天気オヤジ共々出入り自由になっているのが間違いの元だ。
「っていうか、顔の話はどうでも……」
「とか言ってー。ホントは自分だってカワイイって思ってるくせに」
「別にそんなことは――――」
田辺さんがちゃんと書類の説明をしているのかも不安だし。
阿坂が倒れていないかも心配だし。
こんなくだらない話をしている場合じゃないんだが。
「っていうかぁ、『一緒に帰る』とか『一緒に夕飯』とか下心ミエミエ」
「下心じゃありません。阿坂が疲れているみたいだったので、ちょっとした配慮のつもりです」
いや、本当は下心だと思うが。
今はさっさと応接に行ったほうがいいだろう。
「じゃ、優花さん。俺は仕事がありますから。早めに自社に戻ってくださいね」
まずまず冷たい口調で言い放って、応接に行きかけた。
だが、ここでまた。
「ごめん、八尋君。やっぱり書類の説明頼めないかな?」
田辺さんが逃げてきていた。
いい年をしてまったく根性がない。
そうは思うが、もう夕方。
今日はできれば残業などしたくないので優花女史の駆除だけをお願いしようとしたのだが。
「優花さん、今日もいい天気ですね。よかったら、ご一緒にお茶でも」
どうやら彼女があまりに頻繁にここで能天気を炸裂させたため、田辺さんの中では何かが始まってしまったらしく。
「あたし、コーヒーがいい」
「あ、はい。コーヒーですね」
なんとなくとても怪しい雲行きだった。
実は阿坂の対応をするのが嫌だったんじゃなくて、彼女がここにいたから出てきただけなんじゃないのか……。
そんな疑問を抱きつつ。
「総務部は喫茶店じゃありません」
そう言ってはみたものの。
「ユキウエ、今さらナニ真面目なフリしてんのよー」
やっぱりここは何も見なかったことにして応接に入った。

ただし。
田辺さんには後でゆっくりと『女性の趣味について少し考え直したほうがいい』というアドバイスをしておかなければならないだろう。



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