X-10

Sequel to the story

<5>




わざわざ呼び出されたから何かと思ったが、部屋には教授が一人きり。
内容もそれほどたいしたことはなく、阿坂がこのままこちらで暮らすことになったことに対して感謝の言葉を述べるための茶会らしかった。
お礼を言いながらも、小田切教授はまだ半分信じられないみたいな顔をしていたけど。
俺だって、阿坂が何を思って急にOKしたのかも分からないくらいで。
「いや、でも、本当に俺は何も……」
そう言ってみたけど。
「こちらで君と一緒に暮らしてみたくなったんだろう」
とにかく良かったと言って小田切教授は目を細めた。
実際のところ、一番喜んでいるのは絶対に俺だと思うんだけど。
まあ、嬉しく思ってくれる人は多いほうがいいわけだし、とりあえず曖昧に頷いておいた。


その後は延々と世間話。
研究所のこれからのテーマとか、展望とか。
その中には例のウィルスの話もあった。
「え、じゃあ、ナインの研究を手放すってことですか?」
今後はすべてタヌキのいる大学に一任、阿坂はその一切から手を引くらしい。
「でも、何かあったら警察もまた阿坂に聞きに来るんじゃ……?」
現に警察の調査もナイン関係は阿坂に頼りきりだったのだ。
その時に困るのではないかという質問に、小田切教授はゆっくりと頷いた。
「それはこちらで対応するよ。父親の残した最後の資料も君が届けてくれたおかげで今はここにある。私に聞いて分からないことは理志君にも分からないだろう」
元より阿坂は父親が残した資料以上の情報は持ってはいないのだから、そうすれば事件に巻き込まれる可能性は少なくなるはず。
それが教授の配慮なのだと気付くまでに少々時間がかかったけど。
「あの件にはこの業界の人間が少なからず関与している。私はそう考えているんだ」
「でも、本当にそうだとしたら―――」
万一の時、今度は教授の身が危ないのでは、と言いかけたけれど。
「私はどうせもうそれほど長い命ではないのでね」
何があっても惜しくはないんだよ、と告げた表情はとても穏やかで、幸せそうにさえ見えた。
「けど、どうして……」
いくら教え子の子供だからと言っても、そこまでする理由はないはずなのに。

その質問に教授はわずかに微笑んだけれど。
答えが返ってくることはなかった。

過ぎっていくのは少しだけ不安に似た感情。
何を知ったらこれが解消されるのだろうと思いながら。
「だったら……テンってヤツについては?」
間の抜け落ちたファイルと、嘘か本当か分からない噂。
実態のないそれを教授はどう受け止めているのだろう。
そんな気持ちで投げかけた問いはあっさりと簡単な答えに摩り替わった。
「そんなものは、最初からなかったんだよ」
わずかに笑いながら告げられたそんな言葉は、何故だかいつまでも俺の耳に残っていた。


ぼんやりとした曇り空。
ゆるく流れる時間。
教授の話の趣旨がなんだったのかは、分かったような、分からないような。
「……じゃあ、俺はそろそろ」
仕事も残っているし、と言いかけた言葉がその耳には届かなかったのか。
それともわざと聞こえない振りをしたのか。
教授はもう一杯お茶を勧めながら、ゆっくりとまた口を開いた。
「私には……結婚したいと思っていた女性がいてね」
もう何十年も前のこと。
小田切教授が惹かれた女性は自分の教え子で。
「彼女に結婚を申し込むつもりだったが、当時の私には婚約者がいた。彼女には『必ず別れるから少し待って欲しい』と言ったのだが、信じてはもらえなかったのだろうね。卒業と同時に私の前から去っていった。身篭っていることなどひとことも告げずにね」
教授が大切に持っていた写真の一枚目。
微笑んでいる女性は誰かに似ているような気がした。

その後、彼女は女の子を産んで。
それから、別の男性と家庭を持ったのだという。
「縁とは不思議なものでね。成長した娘は本当に偶然、私の教え子と結婚したんだ。そして、娘によく似た男の子を授かった」
テーブルに並べられた二枚目の写真には見覚えのある顔があった。
母親の腕の中には赤ん坊が眠っていて。
それを父親が見守っていて。
ごく普通の、とても幸せな家庭。
だからこそ、教授の気持ちが痛いほど分かった。
「この持病とはもう二十年程の付き合いでね。何度も生死の境をさまよった。だが、未練がありすぎたせいで神のもとに行くことはできなかったようだ」
おかげで今頃になって良くなってきたよ、と冗談めかしていたけれど。
「これでやっと、何もしてやれなかったことを悔やみながら死んでいかずに済む」
本当にホッとしたように微笑んで。
それから、「ありがとう」と言った。
「いえ、俺は別に何も―――」
こんな話をしてもらっても、今はまだ何一つ阿坂にしてやれる自信がなくて。
それが少し悔しかった。

「阿坂は……知ってるんですか?」
けれど教授はゆっくりと首を振って、また何かを思い出すように遠い目をした。
「……一生言わないと約束したからね」
約束の相手が誰なのかは分からないけど。
阿坂はとうに気付いているに違いない。
なんとなくそんな気がした。


「天気は持ち直したようだね」
晴れ間の見えてきた空と。
開け放した窓から入る乾いた風に目を細めながら。
「……話さない約束だなんて言いながら、結局、私は誰かに聞いて欲しいと思っていたんだろうね」
時間を取らせて悪かったと言って教授は俺をドアまで送ってくれた。

帰り際、教授は早めに新居を決めるようにと言って、俺に自宅の電話番号を書いたメモを渡した。
「何かあったら遠慮なく連絡しなさい」
阿坂を頼むと言われて、俺はまた曖昧に頷いたけど。
「教授」
親孝行なんてしたくてもできない阿坂には、やっぱり必要な相手だから。
「俺んち、じーちゃんがいるんですけど、肩揉んだりするのもなかなか楽しいんですよ。だから―――」
できるだけ長生きしてください、と。
それだけ言ってから、そそくさと部屋を出た。
背を向けたその時。
視界の隅に映った教授の目には薄っすらと涙が浮かんでいて。
だから、振り返ることさえできないままドアを閉めた。


大切な相手を失った日から、ずっと後悔を抱えてきた。
そんな月日は俺が思うよりも長かったに違いない。
どんなに一生懸命に生きてきても、どうにもならないことだってある。
いつか許してもらえるなら……と思ったことも数え切れないくらいあったはずだ。
大切だった人も、彼女の娘も。
もうこの世にはいないけれど。
「大丈夫。きっと二人の代わりに阿坂が許してくれるから―――」

総務部への帰り道。
一人でそんなことを考えながら、これからのことをしみじみと思ってみたりした。




「ただいま戻りました」
雑然とした職場の様子に何故か少しホッとしながら。
それでも、時計の針と机に置かれた仕事の山を見比べると思わず溜め息が漏れた。
何から片付けようかと思案しながら席に着くと、いきなりクリアケースに入った書類を渡された。
「なんですか、これ?」
タイトルは『社宅使用申請書』。
「借り上げマンションになるけど社宅扱いだから。八尋君も住宅手当から社宅扱いに変更。で、これが必要書類ね。引っ越し代も出るから安心していいよ」
確かに小田切教授にも早く新居を決めるように言われたけど。
それにしても早い。
「部屋は提携先企業の物件になるんだけど。適当なのを見繕って間取り図送ってくれるっていうから、二人でよく相談してね」
さっきまで少し感傷的な気分だったのに。
『二人で相談』という言葉を聞くやいなや、いきなり甘いムードが押し寄せてきた。
「……阿坂と部屋を選ぶってことですよね」
「そりゃあね。どっちも自分の希望があるだろうし。ケンカしないようにね」
なんだか新婚カップルのようだなと思って、少しくすぐったい気分になっていたら。
「なんだ、八尋。すっかり同棲生活ってか?」
見透かされたようにそんな言葉がとんできて。
「違いますよ。っていうか、編集長、また遊びに来たんですか?」
否定をしながらも、やっぱり俺はやっぱり少しニヤケていたんだろう。
「はぁい、編集長」
「なんだ、優花女史」
「会社にヘンタイがいまぁす」
すかさずそんな野次が。
「そっとしておけ。目は合わせちゃいかんぞ」
「はぁい」
ってか、ここはおまえらの会社じゃないだろう。
「……誰が変態ですか」
「八尋」
ここに就職してからというもの、俺はまずまず順調に仕事をしていたんだが、こいつらが来るとどうも調子が狂う。
なんでもいいから早く追い払わなくては。
この後の仕事にも支障が出る。
「二人で所長と茶でも飲んできたらどうですか? 検査結果も良好で、しかも今日は特別ヒマそうでしたよ」
教授は話し好きだから、忙しくない限りは大丈夫だと思うけど。
「じゃあ、そうするー。あそこのお茶、おいしいのよね」
その茶を入れなければならない秘書はきっと大迷惑だろう。
それと。
「田辺さんはついていかないでくださいね」
「え……あ、でも、所長に届ける書類が」
取ってつけたような用事を言い訳にしつつ、すでに腰を浮かせているヤツが一名。
ただでさえ仕事は溜まっているんだから、そんなことが許されるはずはない。
「社内便で十分です」
情け容赦なく封筒を取り上げると「OUT」と書かれたボックスにポンと投げ入れた。
本当なら「優花女史は田辺さんの手には追えません」と率直なアドバイスをしたいところだが。
恋愛は個人の自由なので、それはやめておくことにした。



そして、夕方。
「あ、やっと来たの?」
送信されてきた賃貸物件を見ながら、俺はちょっと固まっていた。
「っつーか、すっげー広いんですけど」
そもそもこのあたりはものすごく『郊外』な感じで、都心に比べると部屋もかなり安いのは確かなんだけど。
それにしても。
リビング、寝室のほかに部屋が二つ。スペアルームと書いてあるスペースも一部屋分の広さ。その他、バス、トイレ、キッチン、テーブルセットが置けるほど広いバルコニー。
そんなマンションばかりだった。
「こんなところに二人暮しかよ」
社宅扱いなので家賃の八割は研究所負担。
残りの二割をさらに二人で半分にするから、今よりも自己負担が少ないのは嬉しい限りだが。
「ってか、どの物件も寝室っぽいのは一つなんだな」
俺はいいけど。
阿坂はそれでもいいんだろうか。
「……あ、それともそれぞれ自分の部屋で寝るってことなのか?」
などと言いつつ、気がつくとそうじゃないことを祈っている俺。
「ああ、それはね……ジュニア、誰かが近くにいないと寝られないみたいだから寝室は一緒がいいだろうって」
それは阿坂が言ったわけでもなく、小田切教授の差し金でもなく、主治医の指示だったらしいが。
そういうのって、他人に話していいものなのか……?
そんなことを思いつつ、俺はなんだか赤面してしまった。
けど。
「大丈夫、この広さなら余裕でベッド二つ置けるよ」
……普通はそう思うんだって事をすっかり失念していた。
田辺さんにこのヨコシマな気持ちを気付かれなかったのは幸いだったが。
「じゃあ、どこにするか決まったら教えて。できるだけ早くって言われてるからよろしくね」
「分かりました。ってか、早く帰りてぇ……」
先ほど届いたばかりのメールによれば、阿坂はすでに俺の部屋にいるらしいので、一秒でも早く帰って新居を決めたいところなのだが。
昨日早々に帰ってしまったのと今日の教授とのお茶会のせいで仕事はたまりにたまっていて。
「……この様子だと当分帰れそうにないな」
デスクに積み上げられた書類は今日に限って特別に多い。
『遅くなりそうだから、適当にメシ食ってて』
仕方なくそんなメールを送り、『わかった』という素っ気ない返事を見ながら少しだけ緩む。
「八尋君、ここの企業の『この間のアレ』ってなんだか分かる?」
「ああ、それなら―――」
まったく毎日こんなことばかりで、ちっとも進歩しないんだけど。
とりあえず頑張るだけ頑張って、今日のところは一秒でも早く家に帰ろう。


ようやく全ての業務から解放されたのは間もなく九時という時刻。
もしかしたらもう寝ているかもしれないと思いながら、
『今、終わったところ。これから帰る』
そんなメールを入れると、阿坂からの返事も即座に戻ってきた。
内容は「お疲れさま」でもなければ「気をつけて帰ってこい」でもなくて。
『待ってる』
たった四文字のそれに気持ちが沸騰した。
「田辺さん、俺、帰りますから」
お先に失礼しますと言う間さえもどかしく。
慌しくフロアを出ると、徒歩十分の道のりを走って帰った。



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