X-10

Sequel to the story

<6>




「ただいま」
息を切らしてドアを開けると、阿坂がコーヒーの入った缶を持ってキッチンに立っていた。
「……何かに追いかけられたのか?」
そりゃあ、こんなにぜーぜー言いながら帰ってくるのは明らかに不自然だけど。
だからといって真面目な顔で質問をされると返事に困る。
「いや、そういうわけじゃ……」
自分がはしゃぎすぎてるのは自覚してた。
でも、『待ってる』って言うくらいだから、もうちょっと嬉しそうな顔で迎えてくれるんじゃないかと期待してたのも事実で。
だから、いつもとまったく同じ無表情にほんの少し落胆したけど。
「……早く帰りたかっただけなんだけど」
答えながら、その手元に並んだ二つのカップに気付いてまた少し浮上した。
阿坂は気が利きそうなタイプには見えなくて、だから余計に思うのかもしれないけど。
「俺、明日自慢しそうだな」
「何を?」
「……別になんでもない」

今すぐ抱きしめたい気持ちをこらえて靴を脱いだ。
その間も視界の隅には阿坂が映っていて、いつもと何も変わらないはずのマンションの狭い廊下がものすごくいいものに思えた。
「もっと早く帰るつもりだったんだけど、なんか忙しくて―――」
沸騰しはじめたポットに視線を投げつつ、浮かれた気持ちで阿坂の背後をすり抜けようとした時、その手が俺の肩に触れた。
「何?」
何か話したいことでもあって引き止めたんだとばかり思っていたのに。
阿坂は何も言わずに体が触れるほどの距離に立って。
それから、ごく当たり前のように頬にキスをしてくれた。

ほんの一瞬だったけど。
温かくて、やわらかくて。
眩暈がしそうなほど甘い感触だった。

「あ……あのさ―――」
多分、俺の顔は一目でわかるほど赤くなっていたと思う。
それでも、『お帰りのキス』っていうのはお返しをするものなのかを聞こうとしたんだが。
「先に着替えてこいよ」
そんな一言と共に、あっさりとリビングに追い払われてしまった。

パタン、と後ろでドアが閉まって、その後やっと顔から火照りが引いたけど。
「けど、『先に』って――――」
あとでゆっくりキスを返していいってことなのかと一瞬思ったりもしたんだが。
よく考えたら、そんなはずもなく。
「……コーヒーより先に、ってことだよな」
本当に舞い上がってるなと苦笑しながら、着替えを引っ張り出してシャワーを浴びた。
ジャバジャバと湯を当ててるうちに浮かれた気持ちも収まるんじゃないかと思ってたけど。
テンションは上がっる一方だったようで。
もっとじっくりと身体の隅々まで洗った方がいいんじゃないかとか、阿坂はシャンプーの匂いがしてたのに服はワイシャツのままだったよな、とか。
そんなことばっかり考えてしまう。
「……俺、今晩マジで大丈夫なんだろうか」
魔が差しそうになったらとにかくベッドを出て、それでもダメなら床で寝よう。
とりあえずそれだけ決めてからリビングに戻った。


ドアを開けると部屋にはコーヒーの香りが漂っていて、クンクンと匂いを嗅いでいたら阿坂が少し笑ったような気がした。
「もしかしてちょうどいいタイミングだった?」
コポコポと心地よい音を立てて注がれる液体の湯気を見ながら、また少し気持ちが緩む。
「サンキュ。すっげー、いい匂い」
差し出されたカップを受け取る時に触れた指も、当たり前のように隣りにいることも。
それから。
「八尋、夕食は済ませたのか?」
こんな気遣いも。
全部がただ嬉しくて。
「あ、うん。終わるまで我慢できなくて、途中でパンかじりながら仕事してた」
目が合うたびに気持ちが高まるのを感じていた。

その後は並んでベッドに腰かけて。
一日の出来事を話しながら、コーヒーを飲んで。
「でさ、また編集長たちが来て―――」
阿坂はやっぱり自分から積極的にしゃべったりはしないんだけど。
それでも、気がつくと時間はあっという間に過ぎて、もうすぐいつも見ているニュースが始まる時刻だなとリモコンを手にしてみたけど。
「コーヒーなんか飲んで寝られなくなったりしないのか?」
「多分」
「眠くなったら遠慮なく寝ていいからな?」
「ああ」
こうして側にいることがまだ少しくすぐったくて、わけもなく一人で笑ってみたりする。
二人で暮らしたらどんなだろうって、あれこれ思い巡らせてきたけれど、実際の阿坂は俺の予想よりもずっと静かで、滅多に自分からしゃべらないし、テレビもつけない。音楽を聞くこともない。
「阿坂ってニュースしか見ないのか?」
「そうだな」
当然、チャンネル争いなどという低レベルなやりとりは発生することがなく、それどころか、この分だとちょっとした口げんかさえすることはなさそうだった。
阿坂はきっと誰と暮らしたとしても、衝突することもなければ邪魔と思われることもないだろう。
うっかりすると存在さえ忘れられてしまうかもしれないほど静かなのだが。
……俺は意識しまくりなので、阿坂がどんなに大人しくてもあんまり意味はなかった。
「な、阿坂」
実際、俺は昨日よりもずっとよけいなことばかり考えていて。
一緒にいる時間が長くなるに従って感情のコントロールは効かなくなる。
なのに。
「何だ?」
阿坂はまったくそんなことは考えていないようで、それを確認するたび俺はなんとなく気持ちを持て余してしまう。
「いや……やっぱ、なんでもない」
ようやく友達らしくなった程度の間柄。
そして何よりも、阿坂が安堵を求めてここにきたってことも分かってるから。
まだ二日目なんだ、と自分に言い聞かせて。
とりあえず週末にどこかへ出かけないかと誘うためにふと隣に目を遣ると阿坂はまたぼんやりとカレンダーを見つめていた。
自分でも小学生レベルだと思うくらいだから、阿坂だってもっと呆れた顔をしていてもよさそうなのに、そんな気配は少しもなくて。
だからこそ聞いてみたくなったのかもしれない。
「な、阿坂」
「何だ?」
「なんで『一年経ったら』なんて言ったんだ?」
その問いに対して阿坂はしばらく迷ってたみたいだけど。
「……一年経てば忘れると思ってた」
何十秒も沈黙した後で、やっとそれだけ答えた。
「それって俺が? それともおまえ?」
「八尋」
一緒に暮らしたいなんてどうせ一時の気の迷いで、そんな感情は時間をおけば自然と消えてなくなるのだろう。
だったらそれまで待てばいいと思ったのだ、と。
真面目な顔で言われてしまって、俺は軽くショックを受けた。
「なんでだよ? 俺、毎日メールしたし、思いっきり『会いたい』って書いてただろ?」
阿坂は「ごめん」と謝ったけど。
「それが八尋の仕事なんだと思っていた」
俺の仕事が落ち着いて今さら解雇もできないって状態になれば、もう阿坂を呼びつけようとはしなくなる。そのうちにメールも来なくなるだろう。
その時は日本に行く約束もなかったことになるのだから、教授にも会わないようにしよう。
そう決めていたのだと言った。
「俺ってそんなに信用できないタイプか?」
もちろん阿坂を責める気はなかった。
出会って数日で一緒に暮らしたいなんて言われても、信じないのが普通だろうし、俺が阿坂の立場でもきっとそう思うはずだ。
けど、阿坂の理由はそれだけじゃなくて。
「八尋がどうっていうわけじゃない。ただ、前もそうだったから」
「……ああ、あの助手な」
タヌキオヤジの研究室へ転職する代わりに阿坂の身の回りの世話を引き受けた助手と、交換条件でここに就職した俺と。
どうせ同じなんだろうって阿坂が無意識のうちに決め込んでいたとしても仕方のないことだ。
「……そんなふうに思ってるなんて想像したこともなかった。でも――」
俺は就職なんかどうでもよくて、ただ一緒にいられたら……と、そればかり思っていたのだと。
必死に説明しているその途中で。
「―――分かってる」
阿坂はそんな返事とともにまたあのカレンダーに目を遣った。

そんな様子に少し頷きかけて。
もうそれで十分だろうって思いながらも、心のどこかではもう少しでいいから俺がものすごく本気だってことを知っておいて欲しくて。
「な、それってどこまで分かってくれてるってことなんだ? 俺、本当におまえのこと――」
しかも、言ってるそばから思いきり抱きしめてしまってたけど。
勝手に切羽詰っている俺の気持ちなど、阿坂は少しも感じ取ってはくれなかったようで、耳元でふっと小さな欠伸をした後。
「……八尋」
「なんだ?」
「明日でもいいか?」
そんな言葉を投げかけた。
どう見ても続きを聞く気力はなさそうな阿坂の様子に、俺もその先を諦めるしかなかった。
「……いいよ。そんなたいした話じゃないから」
阿坂は抱きしめられたままその返事を聞いていたけど。
三秒後くらいに「ごめん」と言うとそのまま眠り落ちた。

時間は十時ちょっと前。
「ホント、一瞬で寝るよな」
力の抜けた身体をベッドに横たえて布団をかける。
「今日もパジャマに着替えてくれてないんだけど。……まあ、いいか」
ボタンなんて簡単にはずせそうな衣類よりはこの方が俺も我慢しやすいだろうし。
「おやすみ、阿坂」
安堵なのか、失望なのか。
よく分からない気持ちのまま。
また魔が差してしまわないうちにさっさと寝てしまおう。
そう思ったけど。

結局、うとうとしただけで、朝になるまでまともには眠れなかった。



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